◆二◆

 

「母さん、わざわざありがとう」
「いいのよ。それじゃあみんなも、大変でしょうけど息抜きも忘れないでね」
「すみません。気を遣わせてしまって……」
 桐生が気後れした声で小さく殊勝に言うと、母は柔らかな笑顔を浮かべた。
「いいえ。折角の響の彼女なんだから」
「もうそれ以上は言わなくていいから!」
 慌てて俺が口を挟むと母はやはり笑ったまま、けれど含みを持たせた視線を俺へ送る。その母の隣では笑顔を凍らせた柊が俺を見つめていた。思わず一歩、身を引いたところで後ろから高坂と桜井の声が上がる。
「ありがとうございます。これで勉強頑張れそうです!」
 二人揃っての声に母は「いいえ」と首を振ってから、柊へ目を遣る。俺も固くなった首を回して柊へ向けて口を開いた。
「…………柊も、入ったら?」
「お母さん。それじゃあ僕も勉強頑張ります」
 柊は温度のある笑顔を取り戻して部屋へ入ってから、母に気軽に手を振ってゆっくりとドアを閉めた。
 それから5秒ほど、柊はドアと向かい合っていたかと思うと唐突に振り向いて、輝く笑顔を俺へ向けた。
「それじゃあ先輩、僕も参加させてもらいますね」
「ど、うぞ」
 言葉に詰まりながらも何とかそれだけ返すと、柊はそれまで俺が座っていた場所――つまり桐生の隣だ――に堂々と腰を下ろした。それに顔をしかめたのは桐生だ。
「さてと。僕は古典やろうかなぁ。明日でテスト終わりっていうのはいいけど、古典嫌いなんだよね」
「そうなの?」
「うん。だって使わないでしょ、こんなの。漢文とか大っ嫌い。特に読み下し文にする時のあの指示が嫌いなんだよね。いちいち指示されながら読むなんて面倒だし何様って感じ」
 柊は眉根を寄せて桜井の問い掛けにそれだけ一気に言うと、古典の教科書を鞄から引っ張り出してページを睨みつけた。どうやら本当に嫌いらしい。
「レ点とかはまだ分かるけど、一二点とか上下点とか、それが組み合わさってるのなんてもう頭の中ぐちゃぐちゃ。おまけに読まない文字があるなんて、なんて非効率なの? 一文字分、書いてる時間が無駄でしょ」
「文句を言っている時間が非効率だとは考えないのかしら?」
 柊の延々と続く文句を聞きながら、開いている場所――桜井と柊の間だ――に腰を下ろしたと同時に、桐生の冷え冷えとした声が静かに部屋に響いた。
「……何か言った?」
「ええ。言ったわ。聞こえなかったのかしら。文句を言う時間が非効率だと言ったのよ。言ったところでどうしようもないことを並べ立てたって時間の無駄だわ。そんな風に口を動かす暇があるなら手を動かした方がいいんじゃないの?」
「へぇ。そういう考え方もあるんだねー。ま、そんな風に考える人間って大抵試験前で焦ってるバカくらいでしょ? 僕はそんなにあくせくしなくても古典は90点以下取ったことないから、文句言う時間もあるんだよね」
「あら。そういう考え方もあるのね。でもね、90点以下ということは90点から100点の間ということでしょう? あなたの言い方からしても古典は満点を取れないことの方が多いということよね。だったらやっぱり手を動かして頭を働かせた方がいいわ。今度は100点が取れるかもしれないでしょう?」
 ブリザードが吹いている。
 二人の表情はどちらも輝く笑顔だ。けれど、二人が放つ言葉には冷たい刺がふんだんに盛り込まれている。
 そして、試験前に焦って勉強をしている――柊が言うところのバカ――に当てはまってしまっている高坂は、とても居心地が悪そうに目を伏せた。
「僕、別に点取り虫じゃないから。って言うか普段はテスト前だからって勉強なんてしないし。普通は授業を聞いていれば定期試験なんて楽に高得点が取れるでしょ」
「それはそうね。授業を聞いていれば定期試験なんて楽に満点くらい取れるわね」
 その言葉を聞いて、思い出す人間が一人いる。
 俺が試験前に勉強をすると話したときに、試験前に勉強する必要があるのかだの、そんなもの授業を聞いていれば満点が取れるはずだだのとのたまった人間がいるのだ。それは目の前の桐生でも柊でももちろんなく、神野だった。
 どうやらこの三人が相容れない理由が俺には分かってしまった。神野も合わせて三人、同属嫌悪というやつだ。
 そして今、柊は桐生の言葉にぐっと詰まって、わなわなと机の上で握り締めた拳を震わせた。そして顔を上げると瞳の周りを赤く染めて、俺を見上げる。
「先輩! むかつく、こいつむかつく! 何でこんなのと付き合ってるんですか! この性悪女!」
 最後の台詞は桐生に向けてだった。桐生はそれすらも笑顔でかわすと、頬杖をついて教科書に目を落とす。俺はそんな二人を見て溜め息を落としてから、柊が縋りついてきた腕を外した。
「俺としては二人とも嫌だ」
 それだけ呟くと柊は身を引いて、その奥で桐生が顔を上げた。
「一体、この場を何だと思ってるんだ。今日は勉強するんだろ。二人の醜い言い争いを聞くために高坂も桜井もここで勉強してるわけじゃないんだ。もちろん俺もな。何で二人とももっと仲良く――とは言わないけど、お互いを尊重し合えないんだ? こんな初歩的なことは言わなくても子どもでも出来るのに恥ずかしくないのか」
 静かにそれだけ言うと、二人とも押し黙って顔を俯けた。その様子にもう一度嘆息して、それから固まったままでいた高坂と桜井へ改めて顔を向ける。
「ごめんな。変なことに巻き込んで」
「ううん。私は、そんな全然」
「って言うかさ」
 懸命に手と首を振る桜井の隣で、高坂がぼんやりと声を上げた。そんな高坂に桐生と柊も顔を上げて視線を送る。
「二人とも波多野が大好きで仕方ないってだけだろ? それなら二人で仲良く『響クンのカッコイイところー』とか『響クンの凛々しいところー』とか言い合ってキャーキャーしてる方がよっぽど効率的じゃない? 二人ともそういうタイプじゃないとは思うけどさ。いがみ合ってるよりはよっぽどいいんじゃない? 二人とも同じ人間を好意的に思ってるんだから、どっか似てる感性持ってるわけだし」
 高坂はぼんやりとした調子のまま言い切って、それから笑った。そんな高坂の言葉に度肝を抜かれたのは俺だけではなく桜井もだったらしい。呆然として高坂を見つめている間に、柊と桐生は顔を見合わせて、けれどすぐにお互いに顔を逸らした。
「一瞬考えちゃったけどやっぱ無理! 桐生とは仲良くなんて出来ない! 神野の方がよっぽどマシ!」
「それにそんな風に二人ではしゃいだら、波多野君の方が参っちゃうと思うわ。きっと波多野君が耐えられないわよ」
「……それもそっか」
 柊の拒絶を表す声に、桐生の冷静な分析の声。それに答えた高坂のどうでもよさそうな声。俺は改めて頭を抱えた。話が変な方向へと向かっているような気がするのは、俺だけだろうか。
「でも……」
 控えめに呟かれた桐生の声に、俺は少し顔を上げる。微妙な表情の桐生は嫌々という感じで口を開いた。
「確かに大人気なかったわ。今後は気をつけます」
「ちょっと! それじゃあ僕一人だけ謝らないみたいでしょ! 僕も……対抗心燃やし過ぎてたっていうか……でも勘違いしないでよね! たとえ神野が認めても僕は絶対認めないんだから!」
「え? 神野が何だって?」
 最後に会ったのは、桐生を紹介したときだった。そのときは酷く微妙な様子で、苦い表情しかしていなかったのだけれど――。
「さあ? 認めてはなさそうですけど……現に今日ここで勉強会があるって教えてくれたのは神野ですし。神野が『響とあの子の仲を探ってこい』って」
 柊のにこやかな様子に、いつの間にやら神野と柊が結束していることに気がつく。あんなに対抗意識を燃やしていた柊も新たな強敵――桐生の前では、かつての敵と手を結ぼうというのか。
「昨日の敵は今日の友達って言うわけね」
 桜井が神妙にそう呟いて、その隣で高坂が笑い声を上げた。
「神野さんってあの人でしょ? 湖塚にレタスと胡瓜と出し巻き卵の重箱持たせた人。前ちょっと会ったときは『綺麗』っていう印象しかなかったけど、結構すごいんだね。キャラ濃いなー」
 新たな悩みの種に頭を痛める俺を残して、高坂は可笑しそうに笑い続けていた。

 

 

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