◆一◆

 

 くるくると器用にシャーペンを指の先で回す高坂を盗み見て、俺は深い溜め息を吐いた。一体何がどうなってこういう話になったのだろう?
「どうしたの? 波多野君。溜め息なんか吐いちゃって」
 唐突に俺の顔の前に覗き込むように現れた桜井の顔に一瞬目を見張ってから、俺は背筋を伸ばして首を振った。
「何でもない」
「何でもないって顔じゃないけど」
「気にしなくていいよ」
 淡々としていた顔に笑みを浮かべると、桜井は眉根を寄せる。けれど俺から身を引くと、ゆっくりと座り直した。
 一体なぜ、こんな事態になっているのだろう?
 高坂から真剣に「波多野にしか頼めないことがある」と言われたのが一週間と四日前。あの日は結局、それが何なのか聞き出せず終いだった。その翌日、教室へ入ると高坂は俺の腕を引いて、人目を気にしているのか滅多に人のこないエントランスまで移動して、言い難そうに言った。
『桜井に化学を教えてもらいたい』
 その台詞に呆けた俺は、間違っていないと思う。あんな状況で俺にしか頼めないことがあるんだ、なんて言われたら何を頼まれるのかと身構えるのが普通だろう。ましてやあんな意味深な台詞――。
『波多野も、桜井も、湖塚も、桐生さんもさ……みんな、俺とは違うと思うんだ』
『俺とは違うけど、俺はその違う人をよく知ってるんだ』
 あれは一体、どういう意味だったのだろう? いや。俺が考えているような深い意味なんてなかったのだろうか?
 俺はもう一度、溜めていた息を吐き出して高坂を真っ直ぐ見つめた。一体高坂は、何がしたいんだ?
「桜井。これ、どういう意味?」
「ちょっと教科書見せて……ああ。ここは、これが――」
「何でこれがこうなるの? 俺にはさっぱりなんだけど」
「だからそれはね――」
「高坂君と桜井さんをずっと見つめていて、よく飽きないのね」
 唐突に耳元で囁かれたあだっぽい声に、俺はびくりと背筋を伸ばしてシャーペンを取り落とした。真っ白いノートに放射状の線が一本、引かれる。
「誰かを見ている暇があるのなら、教科書を見ている方がずっと建設的よ」
「ちょっと考え事してただけだから。別に高坂と桜井を見てたわけでもないし」
「あら、そうだったの? だったら私、邪魔しちゃったのかしら」
 にっこりと綺麗な角度で口角を上げて微笑んだ桐生は、そっと身を引くと教科書へ目を落とした。
 本当に、一体何がどうなってこういう状況になっているのか。
 高坂が桜井に化学を教えてもらいたいらしい、と桜井に頼んだところまではよかった。それがあれよあれよという間に、桜井は俺にも化学を教えてくれると親切に申し出てくれた。するとその申し出に高坂が喜んで一人より波多野もいた方がいいと言い出したものだから、俺まで一緒に教えてもらうことになってしまった。それを桐生に話すと桐生は、なぜ俺は真っ先に桐生に頼らなかったのかと機嫌を損ねて、気がついたときには四人で勉強することになっていた。
 最初の趣旨からかけ離れている。しかもなぜか勝手に勉強場所は俺の家にされていた。強引にも程がある。
 俺はシャーペンの痕を消してから頬杖を吐いて、教科書をぱらぱらと捲った。決して広いとは言えない自分の部屋にローテーブルを出して、四人で座っている。あまり居心地がいいとは言えない。強張った背筋を伸ばして思い切り伸びをしていると、階下でインターフォンが鳴る音が遠く耳に届いた。
「波多野君。分からないところがあるなら言ってね。他人(ひと)に教えるのは上手くないけれど、波多野君の為なら頑張るわ」
 桐生は丁寧に、おそらくは言葉を選びながら言って微笑んだ。その笑みは嘘偽りなく、綺麗だ。俺はその申し出に笑って、それじゃあと教科書を差し出した。
「ここ、教えてもらえる?」
「おぉーあんまりいちゃいちゃするなよ。俺の前で。俺の目が黒いうちは許さないからな」
「……高坂、いい? 今高坂は波多野君と桐生さんをからかってる暇なんてないのよ? もっと目の前の危機的状況に向き合ってよ!」
「危機的状況って酷い……」
「事実でしょ」
 呆れた表情で真剣に諭す桜井に、高坂は本気でショックを受けたように呆然と呟いた。けれどそれすらも桜井は斬り捨てる。そんな扱いを受けてもなお桜井を好きだというのだから、高坂もかなり一途な男だ。
「桜井ってさぁ、俺と波多野への扱い違い過ぎない? 何で? 俺のこと嫌いなの?」
「え? 嫌いじゃないよ。ただ何て言うか、高坂は言いやすいんだよね」
「つまり俺は言い難いということか」
「いや。そうじゃないんだけど。ほら、なんていうか頭が上がらないって言うか?」
 桜井は笑って小さな声で「色々迷惑かけちゃったしね」と付け足した。「それをいうなら俺の方こそ」と俺がさらに付け足すと、かたんとシャーペンをテーブルに置く音が二つ重なって響いた。
「おい。桜井といちゃつくのはもっと許さないからな」
「高坂君とまったく同意見だわ」
 冷え冷えとした声に桜井と俺が一気に距離をとった瞬間に、コンコンコンと部屋のドアをノックする音が部屋の空気を和らげるように響いた。ちらりと桐生を見遣ると、綺麗な笑顔に氷点下の温度を乗せて俺を見つめていた。内心それにどきりとしてから立ち上がってドアを開けると、母がお盆を持って立っていた。
「響。お友達と一緒にこれ食べてね」
 微笑んでお盆を差し出してくる母に「ありがとう」とお礼を言う。
 母はきっと喜んでいるのだと思う。波多野家に引き取られてから今まで、一度として友人を家へ呼んだことのない俺が、二人の友人と一人の彼女――これはすぐに母に見破られた――を連れてきたのだから。
 お盆に乗せられた色々な種類のケーキと、ポットと五つの紅茶カップを見るともなしに見て、目を上げる。と同時に、意外な人物がそこに立ってにこりと笑っていることに顔を引き攣らせた。その視線に母も気がついたのか、問題の人物を見てから俺を見て、微笑んだ。
「そうそう、響。さっき湖塚君もいらしてね。聞けばあなたの後輩だって言うでしょう? 今日ここで勉強会をするって聞いて、湖塚君も駆け付けてくれたそうよ。お母さん、嬉しくなっちゃって」
 母はきらきらと輝く笑顔で俺を見て、次いで柊を見る。柊は俺ににっこりと極上の笑顔を向けてから、母に同じ微笑みを向けて「僕のことは柊って呼んでください。お母さん」とのたまった。
 俺はお盆を持ちながら痛む頭を抱えて、どうしてカップが五つもあったのかすぐに気づくべきだったと唇をかみしめた。

 

 

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