◇幕間◇

 

 自分とは違う賑やかな文字に赤ペンで丸をつける。次の問に目を移して、今度は正しい答えを赤ペンで書き直した。
「あぁー俺絶望的……」
 目を上げると、俺の手元を覗いていたのか、高坂が頭を抱えていた。
「大丈夫。まだ期末までに時間はあるし、それに半分は正解してる」
「半分か……」
「この調子で行けば七割から八割は取れるだろ」
 高坂は少し顔を上げて微妙な表情を見せると、溜め息を吐いた。そしてがさりと音をさせながら、俺の文字が書かれている政経のプリントを突き出した。お互いに交換して採点していたのだ。
「そりゃ波多野はいいよなー。全問正解だったし」
「あぁ……」
「まぐれとか言うなよ! 虚しくなるから!」
「得意科目だから」
 真顔でさらりと答えを返すと、高坂はショックを受けたように一瞬で目を見張って、それからどんと机に突っ伏した。
 自習室は空調管理も完璧で、快適な温度と湿度に保たれている。テスト前の時期は図書室よりも自習室の方が賑わうものだ。何しろ図書室は「私語厳禁」、それに比べて自習室は騒がない限りは会話が許されるからだ。それでも高坂の頭が机に当たった鈍い音は響いたらしく、何人かの生徒の目がこちらへ向いた。
「それもっと辛い……」
 当の高坂はそんなことにはもちろん気づいていない。俺はそんな高坂のつむじを暫く見つめてから、採点を終えたプリントをその頭の上にひらりと置いた。二十問中十一問正解――なかなかだとは思うのだけれど。
「まだ期末まで一週間あるだろ。それに今の時点でも欠点は免れてるし、何とかなるだろ」
「波多野、それ本気で言ってる? 俺の危機的科目が政経だけだと思ってんの? 甘いな、俺は全科目危機的状況なんだよ」
「それ自慢するところじゃないと思うけどな」
「……波多野がツッコミを覚えて冷たい……」
「とりあえず、政経は俺がノートまとめてテストに出そうなところチェックしとくから。化学以外はノート取ってるし二人でやれば何とかなるだろ。幸い化学はテスト最終日の最終科目だし、時間はある」
「さらっと流したね……まあいいけど」
 高坂は悲しそうに呟いてから、埋もれていた化学の教科書を引っ張り出した。
「俺たち文系なのに、何で理系が選択科目であるんだよー」
 高坂は言いながら、拗ねた子どものように少し頬を膨らませた。最近気がついたけれど、高坂は子どもっぽいところがある。けれどそれでも高坂は誰からも好かれている。整った――とまでは言わないけれど綺麗な顔立ちが人好きのする感じだ、というのも他人から嫌われない理由だろう。神野のように他人を撥ね退けるような美しさとは対極にある顔だ。
「それは俺も思う」
「波多野はいいじゃん、別に。理系苦手でも桐生さんがいるじゃん」
 高坂は同意した俺の言葉に間髪を入れずにそう言うと、にやりと笑った。こういう顔はいたずらをする子どものようで、一気に居心地が悪くなった。
「いいよなー才色兼備が彼女とか羨ましー」
「別に、そんなんじゃ」
「ないって言い切れる?」
 咄嗟に出た否定の言葉を高坂は遮って、意地悪く笑った。
 そんなんじゃない――とは言い切れないような気がする。というか、言い切れない。


 

 

『波多野君がロミオなら、死ぬのも悪くないわ』
 そう――今になって思えば――遠回しに言われた日から三日後、桐生は図書委員の当番の際に、貸し出し手続きを終えた俺にさらりと言った。
『波多野君があまりにも鈍いからはっきりと言うことにするわ。私、あなたが好きなの』
 一体どこにそんな要素が!? と思考回路が一瞬でクラッシュしたのは言うまでもない。だって桐生はそれまでずっと俺を毛嫌いしていたはずだったのだ。そんな俺の思いに気づいているのか気づいていないのか、桐生は続けて真剣に言葉を紡いだ。
『本気よ。あなたのためなら私、優しくなれるの』
 それに俺が絶句しているうちに、桐生はカウンターにやってきた一年生の貸し出し手続きを済ませると、再び俺へ整った顔を向けた。
『こういう場合、世間一般では付き合って≠ニ言うと思うの。だから、波多野君。私と付き合って欲しいの』


 

 

 桐生とのやり取りをフラッシュバックしていた俺に、高坂がせっつくように続けていた。
「もう噂になってるよ。波多野と桐生さんが付き合ってるって。大勢の男子生徒と女子生徒が密かに泣いたことは言うまでもなし」
「そっか……」
「『そっか』って何? そのリアクション。面白くない。で、付き合ってるんでしょ? 俺には一言も言ってくれなかったけどさー」
「うーん……いや」
「付き合ってないの?」
「付き合ってないというか……」
 眉間に皺を寄せながら、息苦しく感じるネクタイを弛める。そんな俺に高坂は「はっきりしないなぁ」と苦笑気味に言った。
「付き合ってる……のか?」
「俺に訊かれても」
 真剣に訊くと、高坂も真剣に返した。確かに、高坂に訊いても意味がない。
「複雑なの? 波多野は迷惑してるとか? 相手はあんな美人なのに」
「いや、迷惑してるんじゃなくて。でもその……何て言うか、なし崩しっていうか押し切られたっていうか」
「つまり付き合ってるのは付き合ってるんだ」
「これ、付き合ってるうちに入るのか微妙な気がするけど」
「二人でなんかそれらしいことしてないの?」
「一緒に帰ったり――でも柊と三人で帰ることも多いし。休みの日に出掛けたり――でもこれも柊がどこからか嗅ぎ付けてきて割り込んでくることも多いし」
「湖塚……何やってんだよ……」

 

 

 桐生は返答に詰まる俺を淡々と見つめて――予想してた通りだと桐生は言っていた――迫るように続けた。
『波多野君。好きな子いるの?』
『いないのね。じゃあどうして躊躇うの? 私が嫌い? それなら諦めるわ』
『私を嫌いじゃないならどうして? 好きじゃないから?』
『好きならどうして? 波多野君は湖塚君とあの神野っていう人のこと考えてるの? 波多野君。男性が好きだったの? 別に悪いことだとは思わないけれど』
『そう、違うのね。だったら桜井さんかしら』
『それも違うのね。それなら私と付き合うことに問題はないわ』
 そんなこんなで気がついたら頷いていた。意志が弱いわけじゃない。誘導尋問に弱いだけだ。


 

 

 高坂は一つ溜め息を吐いて「もういいよ。勘弁しといてあげる」と言って、それから早々に荷物を片付け始めた。
「テスト前の唯一いいことは部活がないことだよな」
「そうか? 高坂はサッカーがしたいのかと思ってたけど」
 いつものスポーツバッグではなく、学校指定の皮の鞄に物を詰め込んだ高坂は苦笑して立ち上がった。
「サッカーは好きだけどさ……何て言うか、いろいろあるんだよ」
 曖昧なその台詞に俺は頷くだけ頷いて、鞄に荷物を入れる。そして立ち上がって先に歩き始めていた高坂に付いて行った。
「さっきは言いそびれたけど、高坂は桜井に教えてもらえばいいんじゃないか。化学」
「俺に醜態を晒せっていうの?」
「醜態って……」
 至極真面目に言われた言葉に絶句して呟くと、高坂は真剣な表情を崩さずに続けた。
「だって桜井の理数系の点数知ってる? オール90以上。通信簿はオール5――そんな完璧理系女子に俺の目も当てられない勉強見てもらうとか……」
「桜井なら普通に教えてくれると思うけど」
「それが辛いんだよ! 分かってないなー」
 高坂はそう言ってつんと顔を背けた。高坂は自分はダメだ、頭が悪いと言うけれど、俺から言わせてもらえばただ容量が悪いだけだ。元は悪くない。一度丁寧に説明すればすぐに呑み込むし、一度覚えたことはなかなか忘れない。十分、秀才の元があると思う。
「高坂って目も当てられないほどできないわけじゃないと思うけど。俺なんかよりもずっと頭いいと思う」
 嫌味にならないように丁寧に言うと、高坂は立ち止まって笑った。
「ありがとう」
 それから少し考える素振りを見せて、首を傾げた。
「頑張ればできるかな?」
「できる」
 二つ返事で返すと、高坂は今度は声を上げて笑った。
「ありがと」
 そう言って踵を返した高坂は、先程よりもゆっくりとした歩調で進む。ポケットに手を突っ込みながら廊下の窓から見える夕陽を見つめていた。急に沈黙が下りた空気に、俺は話題を見つけられずに口をつぐんだ。けれど高坂の方はそれにまったく気を止めていないのか、ぼんやりと校庭へ目を落とした。その瞬間、高坂の横顔が厳しく固まった。
「どうかしたのか?」
 空気にひびが入ったかのように、唐突に崩れた平穏な温度に咄嗟に声を掛けていた。高坂は息が詰まっていたのか俺の声に大きく息を吐き出して、それから窓から顔を背けた。ポケットに入れていた手を出して、顔にそっと当てる。
「波多野って――」
 それきり言葉が続かなくなったのか、高坂は大きく頭を振った。まるで何かを振り落とすように。急に態度がおかしくなった高坂に、俺は眉を潜めて顔を覗き込む。けれど高坂はそれを嫌うように目を閉じて俯いた。
「どうかしたのか?」
 もう一度繰り返すと、高坂は顔を上げた。痛みを伴った横顔だった。
「俺…………いや。何でもない」
 無理に聞き出すことはできなくて頷く。けれどすぐに高坂は小さく頭を左右に振って口を開いた。
「いや。何て言えばいいのか分からないんだ。俺、可笑しいのかな?」
 縋るように向けられた視線を跳ね返すことはできずに、俺は否定の意味を込めて首を振る。訳が分からないなりにも、否定しなければいけないと感じた。
「高坂は可笑しくない」
 はっきりとした声で言うと、高坂はほっとしたように微苦笑を浮かべた。そして前を向いて、ゆっくりと歩く。そっと天井に向けられた横顔は、いつの日かの思い出に向けられているようだった。
「波多野も、桜井も、湖塚も、桐生さんもさ……みんな、俺とは違うと思うんだ」
 静かに並べられた名前に、一瞬胸がどきりと跳ねる。高坂へ視線を走らせるけれど、高坂は未だにぼんやりとした視線を宙に浮かべていた。
「俺とは違うけど、俺はその違う人をよく知ってるんだ」
 そう言って、高坂は唇を噛み締めた。そして不意に歩みを止めると、俺を真っ直ぐ見つめた。真っ直ぐ伸ばされた背筋に、高坂の意思の強さが宿っていた。
「波多野。頼みがある。きっとこれは、波多野にしか頼めないことなんだ」

 

 

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