◇終章◇

 

 頬杖をついて生き生きとして壇上から下りる桜井を見つめてから、俺は溜め息を吐いた。それに応えるように同じく壇上から下りてきた高坂に「頑張れよ、波多野」と肩を叩かれた。
 今の俺に激励は必要ない。必要なのは多分、諦観だ。
 何事も諦めが肝心なのだ。諦めが、肝心――。
「背中を曲げていると惨めに見えるわ」
 美しい声とは相反するような辛辣な言葉が頭上から降ってきて、思わず顔をしかめた。机の横に掛けてある鞄を取って、椅子から立ち上がる。椅子が床を擦る音を聞きながら、俺の机の前に真っ直ぐ立っている桐生を見つめた。
「何事も諦めが肝心なのよ」
「それ、ちょうど思ってたところだよ。でもどうにも諦めきれないことってあると思う」
「あなたはそうでしょうね」
 桐生は小首を傾げて微笑んだ。それが蠱惑的に見えて、慌てて俺は視線を逸らす。乱れた心を悟られないようにと、俺は口を開いた。
「桐生は早々に諦めたのか? ジュリエット役を断るっていうこと」
「だって、私がその話をしようとしたら、桜井さんに笑顔で先制攻撃をされたの」
「『桐生さんのジュリエット楽しみにしてるからね。もう役を降りれないからね』とか?」
「まさにそのとおりよ。一言一句違えずに……さすがね」
「桜井とは色々あったからな。何となくだけど桜井の言いそうなことは分かる」
 少し笑って言うと、桐生が俺を見上げた気配がした。「そう」という感情の読み取れない相槌つきだ。
 二人で揃って教室を出ると、背後から桜井と高坂の声が追ってくるように耳に入る。俺は振り返って二人に向けて手を振ってから、先に教室を出ていた桐生を追った。桐生は長い栗色の髪を窓から差し込む陽射しに輝かせて、早足に歩いていた。
「私、思い違いをしていたわ」
 桐生に並ぶや否や、彼女は表情を仮面のように変えず淡々と呟いた。
「何を?」
「波多野君のことを」
「俺の、何を?」
 意味が分からずに純粋な疑問を乗せて訊ねる。桐生は苛立たしげに眉間に皺を寄せると、溜め息を吐いた。
「そういうところを」
 桐生はそう言うと口を閉ざす。けれどそれだけでは足りないと思い直したのか、再び口を開いた。
「あなたは本当に誰に対しても優しいのね」
「そうかな……どっちかと言えば、俺は優しくないと思うけど」
「確かに、あなたは優しくないわ。自分の懐の内に必要最低限の人間しか入れないようにしている。それは見方によっては優しくないけれど、でもね、必要最低限の人間にはあまりにも優しすぎるということよ」
 桐生は相反する言葉を台詞の内に込めながらも、なぜか微笑んだ。そして髪を揺らしながら首を傾げて、柔らかな眼差しを俺へ向けた。
「私はそれが気に食わないの」
 桐生はその微笑みに乗せて俺にゆっくりと毒を仕込むように言うと、また前を向いて歩き始めた。俺は一瞬固まって目を見張ってから、またその背中について歩き出す。
 この状況と似た感覚を思い出して、頭を働かせる。確か、柊にも似たようなことを言われた気がする。
『先輩は悪くないんですよ……いや、先輩もやっぱり悪いです!』
 その台詞を思い出して、やっぱり柊と桐生は似ていると俺は密かに思う。きっと二人とも嫌がるだろうけれど。
「私が言いたい意味、波多野君はきっと分かっていないんでしょうね」
 桐生は不意に呟くと、諦めたように嘆息を落とす。それを覗き込むようにすると、桐生は俺を恨めしそうに見遣った。俺は彼女のその表情になぜだか申し訳なくなって、目を逸らした。
「ごめん――あっ。それと、もう一つ」
 いつか言おうと思って先延ばしになっていた話題だ。ちょうど先程話題にも上ったし、これ以上のタイミングはない。
「ジュリエットのこと。桐生は演じる気なかったのに、結局は巻き込む形になってごめん。でも個人的には桐生が無事にジュリエットを演じてくれると嬉しい」
 死にたいと望んでいた桐生が、舞台に立つ日がくる。その日にはもうこの世にはいないという桐生の計算は狂ってしまったけれど、俺としては嬉しい誤算だ。
 桐生は一瞬驚いたように目を見張って、けれどすぐに目を細めて微笑んだ。こんな柔らかな表情もできるのかと俺が驚いているうちに、暖かい陽射しに包まれた桐生が言った。
「波多野君がロミオなら、死ぬのも悪くないわ」

 

◇   ◇   ◇   ◇
 

 様々な人が「人間世界二種類」説を唱えている。
 私の分け方は簡単だ。

 

 世界には二種類の人がいる。
 心に傷を受けて、それでもなお他人に天使のように優しくできる人。そして、心に傷を受けたことで他人に対して非情なまでに冷酷になれる人。
 私は心に傷を抱えている。いや、そう言うと語弊がある。私は世間一般で言いそうなところの「心に傷を抱えている」。
 だからといって私は可哀想ではない。誰かに同情してもらいたいわけでもない。
 この傷≠ヘ大切なものだ。この傷≠ェあるからこそ、今の私があるのだから。
 それと同じで、私は後者であることに自嘲もしない。誰にでも非情になれることが悲しいことだとも思わない。それはきっと、一生変わらない私の本質なのだから。

 

 けれど、変わったこともある。
 私は、彼に対してだけ前者になれる。彼に対してだけは、優しくしたいと思う。優しくされたいとも思う。
 彼が優しさをくれるのなら、私もそれを返したいと思う。

 

 きっとそれは、小さな変化に見えて、大きな変化だ。

◇   ◇   ◇   ◇
 

 

怪奇事件簿003 了...

 

 

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