◆二十八◆

 

 ゆっくりと視線を上げて、その顔を確かめてから俺は口を開く。神野は無表情に俺を見下ろしていた。
「神野? 何でここに?」
 ぼんやりとした声が自分の口から零れ出る。神野はその声に眉を潜めてから、すぐに深呼吸を繰り返した。神野にもたれかかる俺を突き返すように立たせると、額に長い指を当てて溜め息を零した。
「お前は――」
 もし飛行機が上空を飛んでいたなら掻き消されてしまうだろうほどの小さな神野の声に、俺は手首から流れ出る血を確かめた。
「馬鹿か!」
 唐突に怒声を浴びせかけられた俺は、身体をびくりとさせて顔を跳ね上げた。まさか大声でなじられる準備などできていたはずもなく、俺は目を見張って神野の顔を見つめる。いつもどおりの静謐な美貌の中に、憤りが混じっていた。
「一体お前は何を考えている? なぜお前は自分を傷つけるんだ? どうしてお前は自分を大切にしないんだ?」
「神野……?」
「澄花や柊や、桐生千影に向ける心を、なぜお前は自分自身には向けないんだ? なぜお前は自分自身を軽んじるんだ?」
「そんなつもりは……」
「お前はいつもそうだ。自分のことはいつも後回しだ。いつも考えまいとする。なぜだ?」
 覗き込むように首を傾げた神野から逃れるように、無意識のうちに俺は顔を逸らしていた。なぜ逸らしてしまうのか、自分でも分からない。けれど心の底では神野が言いたいことがよく分かっていた。
 俺はいつでも自分自身のことを考えまいとする。他人の命を奪った自分のことを。
 桐生は桐生自身のことを「自分ではない他人を死に追いやろうとしている」人間だと言っていたけれど、俺は「自分ではない他人を死に追いやった」人間だ。それも自分自身の母親を。
「――でもこの場合はこの方法しかなかっただろ。俺に人間三人の命を差し出せるわけがない。だからそれと同等のものと言えば、俺の血くらいしか……」
「何もお前の血でなくてもいいだろう。なぜ私に一言、声を掛けない? そうしたなら何か方法も見つけられただろうに」
 神野は怒りが幾分か静まったのか、平時と同じ落ち着いた声を出す。それでも俺は神野から顔を背けたまま、動かせなかった。
 どうやって神野に話ができたというのだろう? 神野はこの件に関して手を出せないのだ。それなのに話をすれば、神野はきっと困惑してしまうだろう。
「それについては僕のせいだよ。先輩を責めないで」
 唐突に聞こえてきた柊の声で初めて、柊が俺の傍に立っていることに気がついた。俺は目を伏せて、誰とも目が合わないように逃げてしまった。
「湖塚の蔵で調べたことを先輩に話したんだ。それには契約を反故にするためには、契約が遂行されたときに得られたものと同等のものが必要だって書いてあって。僕、今回の場合はてっきり人間の命だけだと思ってた。先輩の血なんて思いもつかなかったし。だから先輩の視野が狭くなってしまったのは僕のせいなんだよ。それにさらに言わせてもらうと、僕は神野のせいでもあると思うけど」
「なぜ私のせいになる」
「だって、神野は今回の件に一切手を出せないって言ったでしょ。だから先輩も僕もあんたを頼らなかったんだよ。ううん、先輩は頼れなかった≠だ。あんたに迷惑かけたくなかったんだよ」
 柊はすらすらとそれだけ言うと、静かに口を閉ざす。神野は一瞬、間を置いてから大きく息を吐いて、袖から綺麗な菫色のハンカチを取り出した。
「それでは、私も責任の一端があるな。仕方がない。だが、忘れるな」
 神野は血が流れる俺の左腕を取ると、きつくハンカチを巻いてくれた。菫色がじわじわと赤に染まっていく。
「響。お前は私が身体を懸けてまで守った――その価値がある人間だ」
 神野はハンカチの上から傷口にそっと触れて、言った。俺は頷いて、小さく「分かった」と呟く。それ以上は胸が詰まって言えない気がしてしまったのだ。
 波多野の両親ですら俺が実の母親を死に追いやったことを知らない。だから二人からどれだけ愛情を向けられても、どうしても考えてしまう。もし二人が事実を知ったらどう思うだろう、と。けれど神野はすべてを知った上で言ってくれる。価値がある、と。
「それから、そちらで腰を抜かしている女性はどうする気だ?」
 神野は感情が消えた冷えた声で促した。俺はそれにはっとして、顔を上げる。振り返ると桐生は彼女の母親である女性を見下ろしていた。
「桐生?」
 桐生の後ろに走ってその横顔を覗き込む。その横顔はどこまでも冷静で、非情だった。泣き咽びながら桐生の足にしがみつく母親を見る目は、冷え切っている。
「離して。私に触れないで」
 桐生はやっとその一言を言い放つと、長い髪をなびかせて踵を返した。
「千影、ちかげ……」
「あなたを母親だと、ずっと思ってきたわ。捨てられてからでさえ、あなたをずっと思ってきたわ。でも無駄だってやっと気がついたの。だってあなたは私を娘だと思っていないでしょう。あなたは私を単なる他人だとしか思っていない。私のこの容貌のせいで旦那に逃げられたと、だから私がすべての元凶なのだと。金の無心以外であなたが私の元を訪ねてきたことがある?」
 感情の起伏のない訥々とした声に、桐生の母親は息を呑んだ。涙を止めて、行き場をなくした手で震える肩を抱いて桐生を見上げる。その瞳も、何の感情も宿っていない。
「これからは、あなたと私の父親と呼ばれる男を、この世の中で最も下劣な人間だと思うことにするわ。殺す価値もない人間だと。だから、あなたももう私の目の前に二度と姿を現わさないで」
 桐生は背を向けたままそう言うと、きつく唇を結ぶ。その背後でゆらゆらと力なく立ち上がった女性は、やっと意思を取り戻した瞳を桐生の背中へ向ける。その瞳に宿ったのは、侮蔑だった。
「よく分かったわ。あたしだってね、あんたを娘だなんて思ったこともないもの。清々するわ。金に困るってことくらいね。あんたと縁を切って後悔することがあるとしたら」
 震える声で、けれどそれだけ言い切った女性は、最後に俺に一瞥をくれてから踵を返した。足早に遠ざかって行くその背中に声をかけたのは柊だった。
「言い忘れてたけど! さっき見たことは誰にも言わないでよね、迷惑だから! もし誰かに話したって分かったら色んな手段使ってあんたの記憶消すから!」
「柊、こんなときに何言ってるんだよ」
「だって先輩。これは大切なことですよ!」
 まったく悪びれもせず言い切った柊に、俺は諦めの溜め息だけを落とす。そして改めて桐生を見つめた。小刻みに震える肩に、そっと手を置く。振り払われずにすんだ手に優しく力を入れると、桐生は俺へ顔を向けた。濡れる瞳から、大粒の涙が頬に零れ落ちた。
「桐生」
「私、これでよかったって思うわ。心の底から。だって、私が捨てられたのはもう何年も前のことだったのよ。今までずっと、心のどこかではいつか両親が迎えに来てくれるんじゃないかって思ってた。でも、やっと気づけたんだもの。これでやっと、私は本当に一人で生きていける」
 次から次へと零れ出る涙を拭おうともしない桐生に、そっと手を伸ばす。ゆっくりと涙を拭いながら、俺は口を開いた。
「人間って一人で生きているんじゃないと俺は思う。少なくとも俺は、助けてもらいながら生きてるから」
「違うわ」
 桐生は頭を左右に振って、拒絶を示す。けれど俺の手を振り払ったりはしなかった。
「そういうことを言うのは、一人で生きられない人が言う言葉よ。一人で生きていく強さがないからそういうことを言って、自分を守っているのよ。そういう人は、本当に一人で生きて行く道があることを知ろうともせず、自分ができないからって人間は一人では生きていけない、誰かに支えられているんだ、なんてそう勝手にこじつけてるのよ」
「……うん。そうかもしれない」
 静かに肯定すると、桐生は驚いたように顔を上げた。依然として流れ出る涙を見つめて、俺は続ける。
「だけど、一人で生きていくなんて辛いよ。俺はもう二度とあんな孤独を味わいたくない。だから桐生にも、そんな孤独を知って欲しくない」
 施設にいた頃、俺は間違いなく一人だった。あの孤独を、あの暗い空間を、誰にも知って欲しくない。傍にいて見守ってくれる人の温かさを、支えてくれる人の力強さを、桐生にも知って欲しい。
「一人で生きていくなんて悲しいこと、言わないでくれ。俺を今度こそ本物のストーカーにしたいのか?」
 少し笑って訊ねると、桐生は見張っていた目をゆっくりと細めて、笑った。彼女が見せた初めての、心からの微笑みだった。
「いいえ。もう跡をつけられるのはたくさんよ」

 

 

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