◆二十七◆

 

「柊」
 固く目を閉じたままの桐生の顔を見下ろして、顔にかかっていた髪を払ってやる。小さく緊張が張り詰めた柊の返事を聞きながら、真っ直ぐ前を向く。猫とも人間ともつかないおぞましい姿の猫又を視界に入れて、俺は口を開いた。
「桐生の母親を頼む」
 俺から遠ざかっていく足音が聞こえて、それがぴたりと止まる。柊が桐生の母親の隣についたことをその音で確認してから、未だ目を開かない桐生を引き寄せた。猫又は、ただその行為をじっと見つめていた。
「話がある」
 静寂を打ち破る声を上げて、俺は猫又を見上げた。猫又は表情も変えず、感情も読めないその瞳で俺を値踏みするように見下ろした。猫又はもう俺に近づこうとしない。きっと気づいたのだ。俺には神野の守り≠ェ施されていると。
 夏の湿った風が汗の滲む首筋に当たる。涼しくもならない不快なだけの風が、今は心を落ち着かせてくれた。
「桐生から手を引いてくれ」
「――はっ。そんなこと、すると思うのか?」
 嘲笑とともに吐き捨てられた言葉に、もっともだと俺は頷いた。
 猫又がただで手を引くはずもない。今、俺に取れる手段は二つに限られている。一つは邪道――力ずくで猫又をこの世から飛ばすことだ。そのために必要な霊符はある。けれど猫又が易々と俺に霊符を発動させる時間をくれるとは思えない。もう一つは正攻法――契約を反故にすることだ。けれど、これには契約が施行されたときと同じものが求められる。つまり、人間三人分の命が代償として必要なのだ。
 取る道は、一つしかない。
「何もただで手を引いて欲しいとは言ってない。俺は、契約を反故にして欲しいって言ってるんだ」
 静かに告げると、猫又は瞳孔の開いたその瞳を、目一杯見開いた。
「ちょっと待って! 先輩、どういうこと」
 抗議の声を上げた柊を手を上げて制しながらも、猫又からは目を逸らさない。猫又の反応次第で動きを変えなくてはならないからだ。もし猫又がこの申し出を突っぱねれば、桐生と彼女の母親を守らなくてはならない。けれど、もし猫又がこの申し出を受け入れれば――。
 言葉をゆっくりと咀嚼したような猫又は、俺と桐生に向かって一歩踏み出した。その背中に不吉な赤い太陽を背負って。
「ほう……ではお前が三人分の命を調達するということかな」
「そうなるな」
「お前に人間を殺す度胸はないと思うけどねぇ……」
 さらに一歩、距離を詰めた猫又はその手とも前足ともつかないものを、顎にあてた。幾分か考えるような素振りを見せて、それから俺を射抜くようにきつい瞳で見た。
「私は不確かなものに賭ける趣味はない。確実に、命をもらいたいからな」
「――じゃあ、交渉は決裂か」
 ゆっくりと呟いたと同時に、腕の中の桐生が身じろぎをした。猫又の視線が桐生へ向かうのと同時に、俺の視線も桐生へ落ちる。ゆっくりと瞳を開けた桐生は俺の顔を、それから後ろへ顔を向けて母親の顔を、無表情に見つめた。その顔には何の感情も宿っていない。ただ冷えた瞳で、どこか蔑むような雰囲気を纏って母親に目線を遣った桐生は、最後に赤い夕陽を背負う猫又に目を向けた。
「千影」
 そっと、まるで甘い言葉でも囁くように猫又が桐生を呼ぶ。桐生はその声にゆっくりと目を細めて、それから目を閉じた。
「あなた、私の中からいなくなったのね」
 確かめるような言葉と一緒に、桐生は胸に手を当てる。
「あなたの気配を感じなくなったわ」
 そう言って、桐生は再び目を開ける。俺には目をくれずに、けれど俺に身体を預けたまま虚空に視線を漂わせた。
「あなたは私を見捨てないと思っていたのに。そう……結局は自分の身が危険に晒されれば、私を見捨てるのね」
「違う! 私はお前のためにその母親を」
「どうしてかしら。あのとき――初めてあなたに遭ったときは、あなたが救いの存在に思えたわ。私をこの最低な世界から救ってくれると。赤い夕陽を背中に受けるあなただけが世界の中でただ一つ、私を救ってくれる存在だと」
「千影、私は」
「でも今はそう思えないの。あなたは私を救ってはくれない」
 桐生は悉く猫又の言葉を遮って、まるで独り言のように言葉を紡いでいく。そして最後に、彷徨わせていた視線を俺へ向けた。その瞳が、潤んでいた。
「契約を――反故に」
 小さな声で呟いた言葉は、けれどはっきりと俺の元に届く。その言葉に桐生が先程までの猫又とのやり取りを聞いていたのだと気がついた。けれど桐生はそれについては何も触れずに、ただ真っ直ぐ俺を見上げている。俺はそれにただ頷いて、それから猫又へ目を向けた。今し方耳にした言葉が信じられないというように、猫又は口を半開きにして桐生を見つめていた。
「一方が契約内容に異議を持つことがあれば、契約を反故にできる――そうだったな」
「そ、んなはず……」
「桐生はお前に救って欲しかったんだ。でも彼女はお前にその力はないと判断した」
「――そんな理由では、反故になど!」
「そうね。そんな理由では反故になんてできないわよね」
 怒りの形相を露わにした猫又を、冷徹な視線で射抜いた桐生が会話に入った。淡々とした冷静な口調に、猫又はほっとしたように、愛しい者を見つめる熱を帯びた視線を桐生へ投げた。
「千影、わかってくれた」
「あんな女、殺す価値もないわ」
 桐生はやはり、猫又を遮って吐き捨てた。静かな怒りと侮蔑が辺りへ広がるような、そんな重い威圧感を周囲に放ちながら。
「殺す価値もない人間に、私の命を引き換えになんてできないの。そんなの、犬死にも劣るわ」
 無慈悲なその宣言に、一瞬足を掬われそうになる。光の届かない暗い闇を垣間見たようで、けれどそれが桐生の心なのだと知って、俺は顔を歪めた。
 それでも、今はそれに掬われているときではない。
 抱えていた桐生から腕を外して、座らせる。桐生は俺へ一瞬だけ目を遣って、それから再び猫又へ顔を向けた。長い栗色の髪が夕陽に染まり、光っていた。
 絶望に駆られた瞳を、宙に据えた猫又にゆっくりと歩み寄る。猫又は生気のない顔で俺を瞳に映すと、力が抜けたように地面に膝を付いた。
 それをただ冷たく見下ろして、制服の袖に潜ませていた小刀を取り出す。鞘から抜いた刃が、夕陽に赤く反射する。その光を猫又は瞳に受けてもなお、ただ跪いていた。
 その刃をじっと見つめてから、俺は息を吐き出した。
 次の瞬間、小刀が肉を裂く嫌な感覚を知りながら、赤い血が猫又の顔に飛び散るのを俺は見つめていた。猫又は無関心から驚愕へ表情を変えて、ただ目を見張っている。
「人間三人分の命だったな」
 確かめるように俺は猫又に問いかけるけれど、その答えは返ってこない。
 自分の手首から赤い血が流れ落ちる。拳を握って手首が裂けた痛みを堪えながら、滴る血を猫又の顔の上に落とした。
「俺の血で、人間三人分の命の代償を払う。これで文句ないだろ」
 そう言うと同時に、猫又の気配が消えた。三人分の命の代償となる血を受けて、それで手を打ったということだろう。
 すべて終わったのだと感じて力が抜けていくのと同時に、後ろから身体を支えられた。柊だろうかと思いながら礼を口にして振り返ると、裏葉鼠(うらばねず)の着物が目に入った。

 

 

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