◆二十五◆

 

 猫又はそう言うと、にやりと笑って蹲る女性に一歩踏み出した。
「違う」
 俺は精一杯声を上げて、その背中に向けて言う。すると猫又は振り返った。その顔に憎々しさを乗せて。
「――違う?」
「そうだ、違う。桐生は確かに両親を憎んでるんだろう。死ねばいいとも思ってるんだろう。だけど、お前に殺して欲しいとはもう願ってない。お前を使ってその願いを叶えようなんて、もう思ってないんだ」
「そうお前に言ったのか?」
 少し首を傾げて俺を見下ろす猫又に、俺は言葉に詰まってしまった。
 あの状況で、桐生の気持ちは頑ななまま変わっていないとは到底言い切れない。けれど直接、桐生の口から気持ちを聞いたわけじゃない。それをもちろん知っている猫又は、片方だけ口角を上げていびつな笑みを浮かべる。
「決めつけはよくないな」
 猫又はくるりと踵を返して、未だに震えたまま動けない女性に――桐生の母親に、歩み寄る。猫又の背中は醜い欲望が剥き出しになっている。人間を喰えるという、その喜びが空気を通して伝わってくる。
 俺は足を踏ん張って、きつくその背中を睨みつけた。桐生の気配を感じられない。きっと今、桐生の心は身体の奥底に押さえ付けられているのだろう。
 直接、桐生の口から気持ちは聞いていない。けれどきっと、望んでいないはずだと信じて、それがたとえ俺のエゴなのだとしても、もう突き進むしか道はない。
「待て」
 低く地を這うような声が、猫又に届いたのだろう。猫又はぴたりと動きを止めて、再び振り返った。
「お前はただ人間が喰いたいだけなんだろう」
「そうだ。当り前だろう?」
 桐生の声――あの鈴のような綺麗な声音が、今は酷く不快に耳に届く。耳障りの最悪なその声を聞いているだけで反吐が出そうだ。
「それが物の怪というものだ。人間を喰い、この世に存在していく。手当たり次第に喰えていた昔はよかった。今はこの地に神野の当主がいるからな……もう契約を結ばずに人間を喰うことはできなくなった。だから私は桐生千影との契約をどうしても遂行させたい。合法的に人間を喰えるこの機会を、逃す手はない。お前なら、よく分かっているだろう? 波多野響」
 ゆっくりと紡がれた自分の名前に、驚きはしなかった。微かに目を細めると、猫又は嗤う。
「もちろん知っているよ、お前のことは。有名人だからな……つい最近も、色々とあって大変だったねぇ」
 ねっとりと絡みついてくる視線に、嘲笑う色がはっきりと乗っていた。不意に脳裏に浮かび上がったのは、桜井の姿をして嗤う物の怪の姿だった。
 甦る光景に、感情に、握り締めた拳が震える。
「黙れ」
「母親を殺した物の怪を、お前も神野も消滅させられなかった……可哀想に。アイツは今も向こう≠フ世界でぴんぴんしているよ。あのときお前の血を数滴でも啜ったのだろうな。今までよりも力を手に入れて」
「黙れ!」
 頭に血が昇って冷静な思考ができない。目の前では至上の喜びだとでも言うように高笑いを上げる猫又がいる。力強く地を蹴って猫又に走り込んだと思った次の瞬間には、後ろに強く腕を引かれていた。
 体勢を崩して倒れ込みそうになった身体を、精一杯支えられているのを感じて後ろを向くと、ぎゅっと目を瞑った柊がいた。
「柊」
 慌てて体勢を立て直すと、柊は荒い息を沈めるように膝に手をついて何度か大きく呼吸した。
「せ、ぱい――挑発に乗っちゃ、ダメですよ! あんなの相手にするほどの価値はないんですから!」
 柊は憤怒を露わにした形相でそう言うと、猫又を睨みつけた。視線だけで猫又を殺せそうなほどに。
「でも腹が立つことには変わりありませんね。僕の先輩を何だと思ってるんでしょうね? お前、殺されたいわけ? 僕に」
「人間の子どもに私が殺せるわけが――」
 はっと柊を見て嘲笑う猫又の声を遮るように、柊の周りの空気が変質した。強風が柊に向かって渦を巻くように巻き起こる。そして瞬きの速さで、柊の姿は変わっていた。
 すみれ色の瞳をぎらりと光らせて猫又を射た柊は、じりじりと猫又との距離を詰めていく。
「人間の子どもにならね。でも僕は生憎、人間じゃないんだよね」
 ふさふさと尻尾を機嫌よさそうに揺らした柊は、とびきりの笑顔を浮かべた。けれど目だけは笑っていない。
「で、もう一度訊くけど。お前、殺されたいわけ? 僕に」
 ざっと光が暗転する。今まで明るかったその空間が、照明を消し去ったように唐突に闇に呑まれる。猫又の顔の隣には――いや、猫又を覆い尽くすように青白い炎が浮いていた。
「ち、違う。ただ少しからかっただけ――」
「からかうなんていい度胸してるじゃん? 先輩、ちょっと殺すくらいならいいですよね?」
 にっこりと笑う柊の口調には、もちろん冗談が含まれている。けれど逃げ場がない猫又にとってはそれ冗談だと一笑に付すには余裕がないらしい。びくりと空気を伝って猫又が震えたのが分かった。
 猫又を甚振(いたぶ)ろうとすることに背徳感も後ろめたさも感じさせない柊に、猫又はただ震えている。強者の暴力に、弱者はなす術がないのだ。
 俺は改めて善狐と化した柊の能力を目の当たりにして息を呑んだ。神野の訓練を受けていた始めの頃しか知らなかった俺は、今まで柊の力を本当の意味では知らなかったのだ。確かに強い――かつて湖塚家が狐塚と名乗っていた時代に神野家と契約を結んでいたことにも納得がいく、圧倒的な力だった。
 けれど、ここで柊の言うように猫又を亡きモノにさせるわけにはいかない。桐生との契約がある今、桐生と繋がっているこの猫又を殺してしまえば、猫又と一緒に桐生も死んでしまうだろうと直感が働く。
「柊、まだそいつを殺すわけにはいかない」
「分かってます」
 柊がそう言った瞬間に、元の世界が広がった。夕日が沈む赤い光が戻り、狐火も消えたことに猫又は目に見えて安堵した様子だった。
 けれどそれは一瞬だった。猫又は次の瞬間には踵を返して桐生の母親目がけて走り込んだ。彼女は未だに無様なほどに震えていて、自らに飛び込んでくる娘の姿をした物の怪に目を見開いた。

 

 

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