◆十八◆

 

 急いで校庭を横切って、桐生が校門を出て曲がった方へ走り抜ける。すると少し前で信号に引っ掛かっている桐生の背中が見えた。速度を落とさずにそれに追いついて、肩を並べる。
 桐生はちらりと俺を見上げると、やっぱりといった風に嫌味っぽく溜め息を零した。
「またあなたね」
 刺々しく告げられた予想どおりの言葉に俺は首肯を返す。
「何かしら」
「どうしてさっき、構わないって言ったのか気になって」
 桐生の調子に合わせて淡々と言うと、桐生は柳眉を寄せて目を細めた。
「本当にそれだけなの?」
「いや。桐生の話も聞きたくて。契約については聞いたから、どうしてそれを結ぶに至ったのかを」
 はっきりと聞きたいことを訊ねる。桐生は目に見えて嫌悪感を表情に出した。
「どうして私があなたに話してあげないといけないのかしら? 私の納得できる理由をここで言ってくれるなら、考えてみてもいいけれど」
「俺には桐生が納得できる理由を言えないと思う」
 信号が青に変わる。躊躇わずに歩き始めた桐生に合わせて、横断歩道を渡っていく。
 桐生は俺が隣に並んだことを横目で確認すると、軽く肩を竦めた。
「それなら、残念だけれど言えないわ」
 淡々とした言葉を紡ぐ桐生を見下ろす。まったく残念そうに聞こえない上に、そう見えないところに可愛げが感じられない。俺は小さく息を吐いてから、口を開いた。
「契約の話はいずれ桐生から聞けるように頑張るよ。でも、もう一つの方は訊いてもいいだろ? どうしてさっき、構わないって言ったんだ?」
「どうしてそんなに気になるの? 私が構わないって言うことがそんなにも変かしら」
「変だ」
 きっぱりと言い切ると、桐生が不快そうに眉を寄せるのが見えた。
「そういうことを言わない人だと思っていたわ」
「こういうことでも言葉を濁すと、桐生は嫌がるかと思って。それで、どうして構わないって言ったんだ? 桜井は本気だ。後になって嫌だと言っても、桜井は聞き入れない」
「ええ、あの子ってそういう感じの子だもの。それを分かった上で了承したわ」
 桐生は少し足早に歩き続ける。この間、柊と二人で彼女の跡をつけた路地に出ていた。
「だって、私がジュリエットを演じることは絶対にないもの」
 淀むことなく当たり前のように言い切られた言葉に、俺は一瞬意味が分からず首を傾げる。桐生はそんな俺を馬鹿を見る目で一瞥して、それから小さく嘆息した。その反応に俺は首を元に戻して、前を向く。
 意味が、分かった。
「もうこの世にいないから、か」
 ぽつりと呟くと、隣で桐生の小さな笑い声が聞こえた。その声はどう聞いても美しい鈴の音なのに、その奥に潜む感情は限りなく暗く光が差さないものだ。
「そのとおりよ。さすが、この方面に明るいだけはあるわね」
「本当に、九月末に桐生は、この世にいないのかな」
 そっと、少し挑戦的に訊ねる。言外に、死なせないという言葉を込めて。
 桐生はぴたりと足を止めると、じっと俺を見上げた。その瞳に浮かぶのは、紛れもない敵意だった。
「どういう意味かしら」
「前に言っただろ。俺は桐生を諦めない」
「私はそんなこと、望んでいないわ」
 あまりにも遮断的な桐生の態度に心の底で納得している自分がいる。俺が桐生の立場なら、心の底から俺自身が鬱陶しいだろう。
「桐生の過去に何があったのかは知らない。だからそれをとやかく言える資格を俺は持ってない。だけど、これは分かる。桐生は今、一人じゃない」
 思いが届くように、目を見て言葉を紡ぐ。それなのに桐生は目を逸らして、はっと嘲りを吐き出した。
「馬鹿みたい。いいえ。あなたは『みたい』じゃなくて、『馬鹿』なのね」
 どこまでも冷たい炎を宿して、桐生は俺に目を戻した。見つめられただけで底冷えがするような非道な瞳に、浮かんでいるのは意外にも悲しみだった。
「桐生だって、悲しいと思っているんじゃないのか?」
「何ですって?」
「今の桐生の瞳には、悲しみがある」
 そっと告げると、桐生は目を見張って口をつぐんだ。
「俺は分かる。俺は家族に捨てられたことがあるから」
 心の奥底にしまって、忘れようとしていた痛み。それを自分自身で引き摺りだす。光に当たるその場所に引き立てられたそれは、心が引き千切られそうな痛みを放った。
「俺の実の両親はもういない。父親は行方知れずだし、母親は俺のせいで死んだ。祖父母はそんな俺を心から憎んで、捨てた」
 小さな声で、しまい込んだ過去を吐き出す。忘れようとした、過去を。
 目を伏せて淡々と呟くと、桐生のか細い声が耳に届いた。
「……どうして、そんな話を私にするの」
 今までの敵意が鳴りを潜めた声は、ただ困惑に満ちていた。
「私がこの話を言いふらして、あなたを傷つけることもできるのに」
「桐生はしないだろ。自分から周囲に働き掛けるような面倒なことは」
 確信を持ってそう告げると、桐生は一瞬だけ沈黙する。当たりだと言いたいのだろう。
 顔を上げて桐生を見る。桐生は片眉を引き上げて胡散臭い人間を見るように、俺を睨みつけていた。
「だとしても、それで私はあなたに同情したりしない。だって、あなたはそれでも生きているじゃない。それと、私とあなたを一緒にしないで」
 桐生はきっぱりと厳しい声で言い放った。
「何も分かっていない癖に、私とあなたを同じような思いを持つ人間だと思わないで」

 

 

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