◆十六◆

 

 どうして謝るんですかと目に涙を溜めながら怒った柊を無事にC棟へ送ってから、俺は教室に戻った。休み時間特有のざわめきの中、自分の席に着く。
 考える前に、桐生の席へ目がいく。窓際の席で吹き込む風に髪を揺らすその横顔は、どこまでも無表情で限りない儚さがあった。
 桐生自身に契約を反故にさせる――そんなこと、俺にできるだろうか。今でさえ疎まれているのだ。これ以上近づこうとしても桐生はそれを許さないだろう。
 桐生から目を外して、机を見下ろす。無機質なそれは思考の邪魔にならず、俺が考えることを淡々と受け止めてくれるようだった。小さく息を吐き出して机の上で組んだ指先に目を落とす。
 それでも近づかなければ。柊も神野も、俺を思って励まそうとしてくれる。それも元はと言えば、俺のわがままから始まっているのだ。
 ここで桐生を諦められない。今度は、俺を支えてくれている人のために。
「はーい。それじゃ全員席につけー」
 唐突に、底抜けに明るい高坂の声が聞こえてきて俺は反射的に顔を跳ね上げた。どうやら考えに耽っている間にチャイムが鳴っていたらしい。高坂に向かって文句を言うクラスメイトの頭越しに、黒板の隣に大きく張り出されている時間割表を見つめる。今日の曜日とこれからの時限を確かめると『HR』と書かれていた。
「文句言うなよな。これから楽しいホームルームの時間なんだから。学校に来て唯一、大っぴらに勉強しなくていい時間なんだよ?」
 高坂は教壇の前に立って、文句を付けるクラスメイトに返す。そして不意に俺を指差した。
「ほら見てみなよ。波多野なんてしっかり席について俺を見つめてるじゃん。みんな波多野を見習えよな」
 突然矛先を向けられて、高坂にほんの少し恨めしくなったのは丁寧に包み隠しておくことにする。代わりに俺は引き攣った笑みを浮かべてから、机に視線を落としてこめかみに強く指を押し当てた。
「ちょっと高坂。波多野君を巻き込まないでよ」
 俯いた耳に桜井の声が入ってくる。けれど高坂は「何でー? 俺の友達だから巻き込んでもいいんだよ」と簡単に返していた。
 友達。
 涼やかに、凛として響くその言葉に、ほんの少し胸が温かくなる。先程高坂に感じたばかり恨みは綺麗さっぱりなくなっていた。それに気がついて俺は苦笑を浮かべる。我ながら簡単にできている。
「じゃあ早速本題な。二学期早々、この学校では文化祭と体育祭が立て続けに開催される、ってことはさすがにもう三年だしみんな知ってるよね?」
 にこやかに話す高坂に顔を上げると、全員がしっかり着席をして壇上の高坂と桜井を見つめていた。
「で、今日はその相談なんだ。みんな、文化祭と体育祭で何したい?」
「文化祭はともかくとして、何で今から体育祭の話すんの? 体育祭は10月の終わりじゃん。夏休み明けてからでもよくない?」
 いつだったか、俺に野球部に入れと言ってきたクラスメイトがそう声を上げた。その発言に同調するように、何人かの声がちらほらと上がる。
「考えてもみて。文化祭が9月末、体育祭はその一ヶ月後なのよ? 今から準備しないと間に合わないかもしれないじゃない。だから今の内から何をしたいのかアンケート取って取り組んでおくの。そうすれば時間がなくて焦る、っていう事態が回避できるでしょ?」
 ばらばらと意見が割れたクラス内をまとめるように、桜井がよく通る声で説明する。それに納得がいったのか、口を挟んでいたクラスメイトは静かに桜井を見る。桜井は口をつぐんだクラスを見渡すと、そっと前に屈んで声を潜めた。
「……っていうのは建前でね」
 桜井はそう言うと、きっちりと閉じられている教室のドアにちらりと視線を走らせる。
「実は私たち、この間の委員会が始まる前に小耳に挟んじゃったんだよね。これ、絶対に誰にも言っちゃ駄目よ! 特に他のクラスの人たちには絶対に」
「文化祭で最優秀を取ったクラスは食堂を二週間無料利用できて、体育祭で優勝した学科は体育祭の後片付け免除プラス優勝商品のスイーツが付くらしい!」
 桜井の言葉を受け取って、高坂は声を潜めながらも力説する。その言葉に、クラス内の雰囲気が一変した。そわそわとし出した生徒が、お互いの顔を見合って段々と笑みを広げて行く。そしてクラスのどこかから上がった「絶対優勝だな!」という言葉を引き金に、全員が身を乗り出して教壇に立つ学級委員二人を見つめた。
「とりあえず学科別で競う体育祭の特典ことだけは、他の普通科の学級委員に伝えてある。でも文化祭の方は他のどのクラスの学級委員も知らない。だからここはあっと驚くような出店でも何でもやって、投票で一位を獲得する――異議は?」
「ない!」
 高坂の問い掛けに一致団結したクラスメイトの声が響く。その反応によしよしと頷く高坂の隣で、桜井が声を上げた。
「体育祭の応援合戦は学科別だし……これは次のHRのときにしようか。取りあえず体育祭の個人参加競技には運動が得意なメンバーを選出するね。あとは団体競技だけど、これは運動が苦手な人をフォローできるメンバーを選出するってことでいい? とにかく全員が何かの競技に参加するっていうことが原則だから」
「じゃあ運動部で協調性がある奴が団体競技に出ようか。高坂はリレーが適任だろ、後は波多野も運動神経いいし走るの得意だったよな?」
「じゃあ波多野は障害物持久走だな」
「よし! 取りあえず野球部は協調性あるだろ? だから団体競技でフォローに回って。で、俺はリレーね……後は波多野が障害物持久走と……」
 高坂は言いながら、クラスの端々から上がる声で素早く決まっていく事柄をノートに書き落として行く。勝手に出場協議を決められた俺は慌てて声を上げようとして――けれど口をつぐむ。桜井の有無を言わせぬ満面の笑みにばっちり目が合ってしまったからだ。
「今決まったメンバー全員、異議はないよね?」
 微笑む桜井が、黒く見えた。
 結局何も言えずに終わった俺の周りでは、次々と他のクラスメイトの出場協議が決まっていく。俺は更に幾つかの競技に出されることになったらしいけれど、もう抗議の言葉は浮かんでこなかった。
「こういうとき、運動部がいると助かるよなー」
 しみじみと声を上げたクラスメイトの隣で、運動部所属らしいもう一人が苦笑を浮かべた。
「でも普通科にいる運動部なんて、レギュラーじゃない奴ばっかだけどな。やっぱり体育科が部内でも主力選手だし」
「そう考えると高坂って普通科の希望の光だな!」
 感嘆の声がクラスの中から上がる。その言葉にぴくりと反応した俺は、高坂へ顔を向ける。高坂は冗談っぽく笑って「そんなこと言われると俺、調子乗るけどいい?」と言っていた。
「じゃあ、次は文化祭ね。出店か出し物、どっちにする?」
 にこにこ笑って冗談に応える高坂を軽く小突いて、桜井が告げる。クラスの端々から「一位が取れるなら何でも」という声が上がる。それに気をよくしたのか、桜井は腕組みをしてにっこりと笑った。
「実はねーもう候補考えてるの!」
 にこにこと桜井は機嫌よくそう告げると、じっと俺を見つめた。
 本能が告げている――面倒事に巻き込まれると。
 俺はそろりと桜井から目を逸らす。けれど桜井はそれを許さないように声を上げた。
「出し物にしよ! 演劇がいいと思う!」
 桜井の発言に、クラスの男子は一気にテンションが下がったようだった。けれどそれとは対照的に女子のテンションが上がる。
「演目は何にするの?」
「やっぱりここはお姫様とか王子様とか?」
「ベタだなー。でもそれでいいと思う」
 きゃっきゃと可愛らしく騒ぐ女子を見て、桜井が何度か頷いた。
「やっぱりここは王子様お姫様だよね? その方が観客票も得やすいと思うのよ、私も! 文化祭は一般客も入るし、それに今文句言ってる男子も忘れてない?」
 きっときつい瞳を男子に向けた桜井は、胸を張って言葉を続ける。
「三年一組は観客票が入るってことで他のクラスをリードできてるんだよ。だってうちのクラスには波多野君と桐生さんがいるんだからね!」
 きっぱり告げたその言葉に、一斉にクラスの目が桐生と俺に二分した。
「美男美女! 二人が王子様とお姫様なら目の保養にもなるし、これで一般客の票だけじゃなく、他の生徒の票も入るわ!」
「取りあえず、この点で気をつけなくちゃいけないのは美術科一年の湖塚だけだしね。それに湖塚は一人だけど、こっちは二人だし。絶対勝てる!」
「ってことで、演目は何にしたい? 波多野君、何演じたい? お伽噺系でいく? それともここはやっぱり悲恋系?」
 桜井と高坂は交互に告げて、真剣に俺を見つめた。その瞳ははっきりと「拒否権はない」と告げていた。
 俺は気づかれない程度に嘆息して、それから桜井を見た。
「俺はともかくとして……桐生の意思は? 嫌がる子を無理やり主役に引っ張ってくるのはよくないと思うけど」
 俺は一縷の望みをかけて桐生に話を振る。桐生なら絶対に「嫌だ」と言うはずだ。それならこの流れ自体もおじゃんになる――。
「私は構わないわ」
 予想していた言葉とは別の言葉が、桐生から零れた。驚いて桐生を見つめるけれど、桐生は前を向いたままだ。
「本当にいい?」
「いいわ」
 確かめるように訊ねる桜井に、淡々と頷く桐生の後姿。桜井はにっこりと笑って「これで決まりね!」と嬉しそうに言った。

 

 

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