◆十五◆

 

「波多野君。廊下で可愛い湖塚君が待ってるよー」
 教室に入ってくるなり、桜井が大きな声でご丁寧にも知らせてくれた。一瞬にして教室内の目という目が自分に集まるのを感じながら、俺は立ち上がった。
 桜井はすれ違いざまににっこりと笑って手を振ってくる。俺はそれに苦笑で返しながら廊下へ出た。
「響先輩!」
 壁にもたれていた身体を真っ直ぐに立てて、柊は俺を見るとたっと走り寄ってきた。昨日、丸一日柊を見なかっただけなのに彼の顔を見るのが随分と久しぶりに感じる。きっと柊が毎日、俺の教室に何だかんだと理由をつけては顔を出すからだろう。
「柊。昨日は何か用事でもあったのか?」
 何気なくそう訊ねると、柊はにこっと笑って頷いた。
「昨日は学校休んでたんです。先輩、寂しかったですか?」
「休んでたって、体調崩してたのか?」
 思わず心配になって柊を見下ろすと、彼は少しむくれた顔をして俺を見上げた。
「僕が食いついて欲しかったのは別の方だったんですけど」
「え? ああ……寂しかったよ」
「先輩、それ棒読みですけど。社交辞令って丸分かりなんですけど」
 更に表情を険しくした柊を苦笑で見下ろして、俺は「それで」と話題を変えた。
「どうやら体調が悪かったわけでもなさそうだし、何かあったのか?」
 柊は渋々頷いてから俺の背後を見て思い切り顔をしかめた。それから柊は「ちょっと」と俺に向かって手招きをしながら、人気を避けるように廊下を移動する。
 柊に着いていく前に後ろを振り返ると、あからさまではないけれど教室にいるクラスメイトの好奇心に満ちた目がこちらへ向いているのが見えた。俺がそれを見ていることに気がつくと、全員がそろりと目を逸らす。
 このせいか、と考えながら柊について廊下を進む。柊はぐんと人気が少なくなった場所で足を止めると、くるりと振り返った。
「で、先輩。話しに入る前にお願いがあるんですけど。クラスに戻ったら桜井に釘さしておいてくださいね。むやみやたらと人の名前を大声で叫ぶなって」
 柊は邪気を覆い隠した爽やかな笑顔でワンクッション置いてから、真剣な表情になって俺を見上げた。俺も苦笑を浮かべたその顔を、柊につられて真面目な表情にする。
「昨日、僕が休んだのは先輩のご察しのとおり、体調不良じゃないんです。ちょっと、調べ物があったので自宅の蔵に籠ってたんですけど」
 柊はそこで言葉を切ると周囲に視線を遣って、周りに人がいないことを確認しているようだった。俺も目線だけを動かして他に人の気配がないことを確かめる。そうして柊に目を戻すと、柊は口を開いた。
「湖塚には狐塚時代の資料はたくさんあったんですけど、物の怪との契約関連のものは全然なくて。でも、少しだけ役に立ちそうなものなら見つけました。と言っても、先輩の力≠ノはなれません。ただ、知識≠ノはなるかなって」
 柊はそう言うと、声を低くして続ける。
「先輩は具体的に桐生をどうやって救うつもりですか?」
 真剣に切りだされたその話題に、俺は瞬間言葉に詰まった。
 具体的には――情けないけれど、考えていなかった。とにかく桐生を助けたい、力になりたい、その気持ちだけが先走って計画も何も考えていなかったのだ。
 柊は俺の表情からそれを的確に読み取ったらしく、苦笑を浮かべた。
「何となく想像はしていましたけど。じゃあ、僕から助言です」
 すっと人差し指を一本立てて、柊は続けた。
「桐生は物の怪と契約を結んでいます。それが施行されている以上、先輩や僕では太刀打ちできません。契約自体を契約者の意思に反して無理やり反故にさせる方法はありますけど、それは先輩と僕には実行することはできません。物の怪と人間の間の契約が持つそれ自体の力も、必ず契約を遂行させようとする執行力も強すぎるからです。僕たち二人が力を合わせたとしても、契約を反故にさせることは絶対に無理です。でも唯一、それができるのが神野の名を継ぐ者――神野家当主です」
 柊は、俺が頷くのを見ながら大袈裟に溜め息を吐いた。
「でも神野は頼れない、ですよね? 僕だってあんな胡散臭い奴に頼るなんて死んでもご免です。だからここは正攻法でいきましょう」
「正攻法?」
「はい。正攻法です」
 柊はそう言って、再び周りを気にし始めた。俺もつられて目を動かす。
 遠くからこちらに向かってくる声が聞こえた。まだ姿は見えないけれど、じきにここに来るだろう。俺は柊を促しながら、更に人気がない方へ歩き出した。
「つまり、無理やり契約を反故にするという方法が邪道だとしてってことか?」
「その通りです。邪道が駄目なら正しくいきましょう――ということで先輩。桐生が猫又と結んだ契約を、桐生自身に反故にさせてください」
 柊は至極簡単に、さらりとそう言ってのけた。俺はその発言に少々面食らって、ぐっと唇を引き結ぶ。それから慎重に言葉を選んで口を開いた。
「それができれば苦労しないんだけどな」
「それは承知の上で言ってます。でもこれしか方法がないんです」
 柊は申し訳なさそうな顔で続ける。
「契約を結んだ者、その片方でも契約内容に異議を持つことがあれば、契約を反故にできます。今回の場合、契約を結んだ片方の猫又には異議はないでしょう? ――って言うか僕、まだ桐生の契約内容を知らないんで憶測の範囲ですけど」
「ああ、契約内容なら聞き出せた。契約内容は――」
 俺はそこまで言ってから言葉に詰まる。神野にも話さなかったことを、ここで柊になら話してもいいという理由があるのだろうか? これは桐生の未来に関わることなのだ。
 俺が先の言葉を続けられずにいると、柊は分かったというように深く頷いた。
「契約内容を先輩が知っているなら十分です。僕は先輩を信じて着いていくだけですから」
 いつの間にここまで柊の中で自分の価値が高まっていたのだろう。そのことに純粋な嬉しさと、恐ろしさを感じた。
 俺は柊を巻き込めないと感じながらも、こうして巻き込んでいる。こんな風に頼り切っていたら、いずれ柊を危険な目に遭わせてしまう。
 自分でも気がつかない内に複雑な心境を表す表情を浮かべていたらしい。柊は少し悲しげに俺を見上げてから、すぐに表情を切り替えて続けた。
「で、続きですね。多分、猫又に異議はない、そして猫又に異議を持たせようとするのも無理だと思います。人間を正当な理由で喰えるんですから、異議を持つ方が変ですし。だからこの場合、桐生に賭けるしかありません」
 きびきびと話し続ける柊に、思考のスイッチを変える。俺は真剣に彼の話に耳を傾けて頷いた。
「桐生が契約内容に異議を持って、彼女自身が契約内容を反故にすれば――」
「物の怪との契約を切れます」
 柊は俺の言葉の続きを受け取って、しっかりと告げる。
 桐生自身に契約を反故させる。
 そんなことが、果たして可能だろうか。彼女は切望しているのだ――両親の死を。
「でも一つ、知っておかなくちゃいけないことがあります」
 厳しい声を出した柊を見下ろすと、彼は声のとおりに顔を険しくしていた。
「何だ?」
「代償が要ります」
「代償?」
「はい。契約を反故させる方側には、契約が遂行されたときに生まれる利益と同等かそれ以上の代償を相手に渡さなくちゃいけないんです」
 柊は「物の怪ってほんとむかつきますよね」と忌々しく続けた。俺は柊の言葉を頭の中で繰り返して、力強く拳を握った。
 契約が遂行されたときに生まれる利益。それは桐生の両親と桐生自身の、つまりは三人の人間の命だ。それと同等の利益を猫又に渡す――それはつまり、人間三人の命をどこかで調達して来いということなのだろうか。
「響先輩」
 そっと腕を引かれて見下ろすと、柊が今までよりも更に真剣な目で、俺をじっと見上げていた。
「先輩が桐生を救いたいと思ってることは知ってます。でもね先輩、覚えててください」
 柊は躊躇った様子は一切見せず、しっかりとした口調で続きの言葉を紡いだ。
「僕は桐生なんてはっきり言ってどうでもいいんです。死のうが生きようが、僕には興味ありません。この世の中で僕が生死を気に掛けている内の人間に、桐生は入ってない。だから桐生が契約によって死のうが、それによってこの世がどうなろうが、僕はどうでもいいんです。僕が気に掛けているのは一つだけ」
 俺の腕を握る力がぎゅっと強くなる。俺は遮らずに、じっと続きを待った。
「先輩だけです。先輩が心身ともに健在でいるかどうかだけ」
 柊はそう言うと、俯いた。
「桐生が契約で死ぬと先輩の心が壊れるなら、僕は桐生を助けます。でもそのことによって先輩の命が消えるなら、僕は無理やりにでも先輩を連れて桐生を見捨てます」
 毅然と保たれていた声は、ほんの少しだけ震えていた。そこに柊の決意が見えて、そうさせているのは紛れもなく自分自身なのだと分かって、俺は強く目を閉じた。それからゆっくりと目を開けて、俺は柊の頭に手を置いた。
「ありがとう。それと、ごめんな」

 

 

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