◆十四◆

 

「それはつまり――確実に桐生を喰えるように、か?」
「そういうことね」
 桐生はあっさりとそう言うと、長い髪を払った。俺は払われたその髪を避けながら桐生を見つめた。
「桐生は普段は物の怪が見えないのか?」
「さっきそう言ったでしょう。聞いていなかったの?」
 桐生は不機嫌に柳眉を寄せながら続ける。
「契約を結んだ日、私は偶然猫又を視認できたの。だから契約を結ぶことができたのよ」
「その日以来、桐生と契約した猫又を見たことは?」
「ないわ。あの日以来、猫又以外の物の怪も見たことはない。ただ、契約を結んだ猫又のことは感じるときがあるわ――私の中にいる、と感じるときが」
 桐生は面倒そうに溜め息を吐いてから、そう答えた。その横顔を見ていると、思わず言葉が零れていた。
「桐生はそれで、いいのか?」
 そう訊ねてしまったけれど、すぐに問い掛けたことを後悔する。
 桐生は今までで一番の嘲笑を浮かべて、俺を冷笑うように唇の端を持ち上げた。
「それでいいのか、ですって? よくなければ契約なんて結ばないわ。波多野君って馬鹿だったの? そんな当たり前のことを訊くなんて」
 瞳に強い軽蔑の色を乗せる桐生に、強く口を結ぶ。
 蔑視に耐えられないわけじゃない。ただ、桐生の言葉に耳を傾けなければいけないような気がした。そうしなければ、桐生は絶対に俺に話してくれないだろうという確信があった。
「私はあの人たちが死ねばいい。死んでこの世からいなくなるならそれでいいのよ。私の命なんてはっきり言ってどうでもいいわ。あの人たちが――」
 桐生は小さな、けれど芯の強い声で呪詛を紡ぐ。まるでその言葉が彼女に勇気を与えているような錯覚を覚えた。
「この世から消えてくれるなら」
 桐生は遠くを見つめて、傷ついたような瞳を浮かべた。けれどそれも一瞬のことで、力を取り戻した瞳は俺へ真っ直ぐに向けられた。
「もういいかしら」
 桐生は形だけそう訊ねて、俺の答えを聞く前に歩き出した。心なしか早足で歩いて行く桐生の背中は、もう追いかけてくるなと語っていた。その心の言葉を感じて、俺は唇を噛み締めた。

 

 

 神野が悠長に出してきた湯呑みを持つだけ持って、ぼんやりとしていた。風が縁側を吹き抜けて、そこに腰かける俺の前髪を撫でていく。そのまま身動き一つせずに池を眺めるともなく眺める。
 今日一日で随分気力を使ったような気がした。普段、自分から他人に話しかけることのない人生のツケがこんなところで回ってくるとは予想もしていなかった。
 体力を温存させるためのように湯呑みを持ったままじっとしていると、ゆったりとした足音と衣擦れの音が聞こえてきて、それは音もなく俺の隣に腰かけた。それでも俺の方から話しかける気は起きず口をつぐんだままにする。すると向こうが口火を切った。
「随分と気疲れした様子だな」
 決して嫌味ではない、純粋な労わりの声音だった。隣を見上げるという行為すら億劫に感じながらも首を回すと、神野の端正な横顔が見えた。神野は俺と同じように湯呑みを持って、じっと庭を眺めている。
「少しだけ話を聞けた。でも一番肝心なことはまだ聞けてない」
 誰の、何の話なのか――その一番肝心な言葉を省いてしまっても、神野には何の話か通じたようだった。神野が隣で頷いたのが分かった。
 そっと顔を上げてみると、神野は視線を青々しく茂る葉っぱに固定したままだった。俺はそれまでよりも湯呑みを強く握って、自分の爪先に目を落した。
「桐生は、普段は物の怪が見えない人間らしい。契約を結んだときはたまたま猫又を見ることができたって、言ってた」
 ぽつりぽつりと、ゆっくり言葉を紡いでいく。神野はその間、相槌を打たずに俺の言葉に静かに耳を傾けているようだった。
「契約内容も聞いた」
 静かに告げる。「そうか」という淡々とした一言が届いたそのすぐ後に、神野が茶を啜る音が聞こえた。その答えに思わず顔を上げて神野を見る。神野は変わらず庭に視線を定めていた。
「聞かないのか? 契約内容を」
 確かめるように訊ねると、神野は少し間を取ってから口を開いた。
「聞かずとも、大体は分かる。お前の様子も相当落ち込んでいるから、精神的に辛い内容だったのだろう? それに、契約内容をお前は話したくないのではないか?」
 神野の言葉に少し驚いてから、苦笑を浮かべた。神野はこういうところだけは観察眼が鋭い。そして、遠回しに気遣ってくれる。
 桐生の契約内容をたとえ神野にでも話すつもりはなかった。
 それは桐生の生死に関わる重大なことだからだ。それを俺が勝手に他人に話すのは違うだろう。それに神野が契約内容を知っても、どうしようもできないことを知っているからだ。それならば、知らない方がいいこともある。
「人間が望むことは、いつだって身勝手なことだ。だが、それが切実なときもある。たとえ自分の命が消えようとも、それを欲するほどに」
 神野は続けてそう言って、湯呑みを口元に運んだ。
 俺は神野の完璧な横顔を見つめて、それから柱に頭を預けた。口元には知らない内に、自嘲の笑みが広がっていた。
「俺、どうしてそれを望んだのか聞けなかったんだ。訊ねられなかった。それに訊いたとしても、桐生は答えてくれなかったと思う」
 そっと目を閉じて、今日、痛感したことを言葉にする。
「俺、自惚れてた。精一杯接すれば、桐生は俺に心を開いてくれるんじゃないかって――柊のときみたいに、拒絶されても好意を持って接し続ければ、桐生はすぐにでも信頼してくれるんじゃないかって」
 そう呟きながら、自分の浅はかさを思い知る。
「そんなはず、ないのにな」
 自分の唇から零れた言葉が、重苦しく頭に反響した。
 神野は何も言わない。それを感じて俺は続けた。
 吐き出してしまいたい。吐き出さなければ、明日からはもう桐生に近づくことすらできそうになかったからだ。
「柊は助けを求めてた。自分が抱える恐怖を拭い去ってくれる人を。でも桐生は違う。桐生は助けなんて求めてない。桐生が望んでるのは、契約が果たされることだ。俺は桐生から見たら、彼女の望みを妨害しようとする人間なんだよな」
 そんな人間に、話すことなんて本来ならないだろう。それでも俺がしつこく食い下がるから、彼女は俺を一時的にでも追い払うために話したのだろう。
 ゆっくりと瞼を持ち上げる。神野がゆっくりと息を吐き出すのが聞こえた。
「響。ひとつお前も覚悟しておかなくてはならない」
 神野の少し厳しい声が聞こえる。それは俺自身に対する厳しさというよりも、これから起こるだろう出来事に対するものだった。
「桐生千影からすべてを聞き出せたとしても、お前の望むように彼女を救えるかどうかは分からない、ということを」
 その言葉に顔を向けると、神野は俺から目を逸らさずに真剣な様子で続けた。
「柊のときとはわけが違う。私はお前を助けることはできないし、お前に猫又から桐生千影を救えるほどの力があるかと言われれば、間違いなく否だ。もし彼女自身が契約を反故にと望んでも、お前がそれを助けてやれるという保証もない」
「……分かってる」
「本当に分かっているか? お前は桐生千影が猫又に喰われるのをただ眺めているだけしかできないかもしれない。彼女がお前に助けを求めたとしても、お前では力不足で助けることができず、彼女を見殺しにするという結果になるかもしれない」
 改めて言葉にされると、身を貫かれるよりも重厚で暗影に包まれた言葉だ。けれど、神野が言っていることは間違っていない。正しく真実を告げている――それが更に、重く圧し掛かる。
「柊にも頼れないと考えろ。私があの子をお前の傍につけたのは、桐生千影を救うためではない。お前の命を守るためなのだから」
 神野はそう言って、俺から顔を背けて立ち上がる。すんなりと伸びた神野の身体が、俺の顔にかかる夕陽を遮った。
「柊はお前の身に危険が及ぶと判断すれば、あの子自身の意思でお前だけを救うだろう」
 長く自分の方へ伸びる影を見下ろして、俺は湯呑みを握った。
「分かってるよ。俺は桐生を見殺しにするかもしれないことも。柊は、たとえ俺が桐生を救えと言ったとしても、桐生ではなく俺を救うだろうことも。それを神野が望んでることも」
 ゆっくりと目を上げる。神野は少しだけ俺の方を振り返っていた。けれどその表情は、影になっていてよく見えない。
「後悔するかもしれない。桐生を助けられずに、自分の愚かさに辛くなるかもしれない。こうやって桐生を救いたいなんて思うのは、ただのエゴだって分かってる。桐生からしたら傍迷惑な話だって分かってる。でも、それでも放っておけないんだ」
 桐生が彼女自身の命を見捨てることができても、俺はできない。それに何より、諦めないと言ったのだ。彼女は俺に何も求めていないだろうけれど、嘘を吐いただけにはなりたくない。
 神野はゆっくりと顔を上げて、夕陽に染まる空を見上げたようだった。淡い赤と仄暗い黒が混ざる空は、幻のように儚い。
「折角お前のために茶を淹れたのに、飲まないつもりか?」
 神野は珍しく、恩着せがましい口調で告げる。
 それまでの重苦しさを振り払うかのようなその言葉に俺は口元に笑みを広げて、湯呑みを運ぶ。口に含むと甘みとふわりとした香りが広がった。
「また俺のために淹れてくれ。明日からも、頑張るから」
 そっと言うと、神野が小さく頷いたような気がした。

 

 

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