◆十三◆

 

 桐生は足音かそれとも気配か、いずれにしろ俺が近づいていることに気がついた様子で、忌々しげに振り返って俺を見上げた。
「まだ何かご用?」
 鬱陶しい、近づくな――そんな声が空気を介して伝わってくる。はっきりと言わずともその瞳が、その声が、彼女の心の声を伝えていた。
 怯みそうになるようなその威圧感を可能な限り無視して、一歩進んだ。桐生は俺を見上げたまま、踊り場から一歩も動かない。
「話は終わってないと、俺は思ってるから」
「話というのは、何の話かしら」
「桐生についての話」
 そう言うと、桐生は片方の唇だけを引き上げて嘲笑う。その笑みに明らかな軽蔑が乗っていた。けれどその唇は固く閉ざされたまま、開く気配はない。とにかく用件をさっさと言えということだろう。
「逢魔時に一体何があったのか知りたい」
「聞いて何になるの? あなたに話したって無駄だわ」
「無駄かどうかは俺が決める」
「話をしてくれと頼んでいるのはあなたよ。どうしてあなたが決められる立場にいるのかしら」
「少なくとも俺の方がその方面には明るいからだ」
 桐生は馬鹿馬鹿しいと言いたげに俺に一瞥をくれると、長い髪をなびかせて踵を返す。俺もそれを追って歩き出した。
「あなたの方が明るい? だったら、今朝あなたが言ったことは本気だったと言いたいのね」
「俺を妄想癖男呼ばわりしたあの話題のこと? そのことだったら本気だったって言うよ」
 桐生に影響されたのか、俺も皮肉を乗せてそう言っていた。
「言っておくけど、俺が今朝話したことを妄想だと断ずるなら、俺の方も言わせてもらう」
 そう言うと、桐生はちらりと俺に目を向けて先を促した。俺はその視線を真っ直ぐ見返して、続ける。
「桐生も妄想女だ」
 静かに告げると、桐生は目を見開いて足を止めた。その瞳に浮かぶと予想していた怒りは、予想に反して見えなかった。その代わり、呆然としたような驚きだけが瞳にちらついている。
 桐生が足を止めたことで、俺も必然的に足を止めざるをえなくなる。桐生にまじまじと眺められてさすがに居心地が悪くなってきた頃にやっと、桐生はその顔に嘲りの色を戻した。
「随分はっきりと物を言うのね。意外だわ」
 桐生はやっとそれだけを告げると、また歩き出す。俺もそれに合わせて歩き出しながら、言った。
「はっきり物を言わない人間は嫌いだと言ったのは、君だ」
「そう。私に合わせてくれたのね。わざわざありがとう」
 桐生は礼の言葉の部分を、非常に嫌味ったらしい声音で紡ぐ。
 こんな態度を取っていても心が折れずにいられるのは、目的があることと、その相手が桐生だからという二つの理由がある。
 いくら有難迷惑だと言われても、易々と物の怪と契約を結んでいる人間を見放すことはできない。俺は伊達に十七年間物の怪から狙われて生きてきたわけじゃない。あんな物の怪と契約することのその悲しさを、その虚しさを、その危険を、桐生は知らないわけではない。だからこそ、見捨てられない。
 だからといって、こんな態度を取られて平然としていられるのは、桐生が俺によい感情を抱いていないのと同じように、俺も桐生によい感情を抱いていないからだ。この言い草や態度を仮に神野か柊か、はたまた桜井か高坂の誰かから取られたら、さすがに俺でも心が折れたと思う。
「それで何を聞きたいの? 契約内容は今朝話したとおりよ」
 桐生は真っ直ぐ前を向いて、少し早足で昇降口を進む。いつの間にか下駄箱まで着いていたらしい。俺は上履きを脱ぎながら、靴箱を開けてローファーを取り出した。
 高坂が教室に入ってくるまでに交わされていた、今朝の会話を思い出す。
 両親を見つけ出し、彼らを殺すこと――その代償は、自分の命。
 はっきりとそう告げたときの桐生の瞳は、ぞっとするほどだった。彼女の周りにあるものすべてが恐悸(きょうき)に満ちてしまうような、そんな空気だった。
 靴を履き替えて桐生を見る。桐生は儚げな横顔でローファーに履き替えて、俺の方は見もせずに歩き出した。桐生はチャンスがあれば俺を引き離そうとしているようだった。
「詳しく内容を聞きたい」
 桐生に並んで訊ねると、彼女は心底鬱陶しそうに大きく嘆息した。
「どうして?」
「一つ、納得がいかないことがあるから」
 そう言うと、桐生はあからさまに「何を言い出すのか」という表情を浮かべて、胡散臭そうに俺を見上げた。
「君は契約を結んだ。その内容は両親を見つけ出して殺すこと――だったらどうして今、君から物の怪の気配がするんだ?」
 契約を結んだのなら、猫又はわざわざ桐生に取り憑かなくてもいいはずだ。契約内容を遂行したときに、彼女の元に戻って命を喰らえばいい。それなのになぜ、まだ遂行されていない今から猫又が彼女に憑いているのかが分からないのだ。
 桐生は俺の表情から、俺が何を言いたいのか汲み取ったらしい。彼女は溜め息をついて、口を開いた。
「契約印があるのを知っているかしら? 私の右肩には、猫又と契約を結んだ際にできた契約印がある。契約印は契約した者同士に刻まれるの。契約印を伝って、お互いの居場所を知ることができるように」
 桐生はそっと右肩に触れた。俺はそれを見ながら口を挟む。
「お互いの居場所を知ることができるということは、契約から逃げられないという意味でもある、ということか」
 桐生は簡単に頷くと、右肩から手を外して続けた。
「でも私は常日頃から物の怪が見える目を持っているわけじゃない。それはつまり、契約印を持っていても私には猫又の居場所が分からないということよ。猫又はそれを憂い、絶対に私を見失わないように契約印とは別に、自分の一部を私に流し込んだのよ。自分の一部が私の身体にあれば、私がどこにいようとも間違いなく見つけることができると、そう言っていたわ」

 

 

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