◆十一◆

 

「な――」
「おっ! 波多野おはよ――って俺は何も見てませんから! ごめん!」
 がらりとドアが開く音がして高坂の明るい声がしたかと思うと、それはすぐさま焦った声に変わりドアが勢いよく閉まる音が教室中に響いた。
 一体何事だと思って振り返ると、すり硝子越しに高坂の人影が見える。首を傾げてから桐生に向き直ると、彼女がまるで不名誉だとでもいうように顔をしかめていた。その表情を何度か瞬きして見つめてから、やっと高坂が焦った理由が分かった。
 傍から見れば、俺は桐生を壁に押し付けるという不埒な行為をしているということになる。この行為の中に何ら後ろめたいところはないけれど、教室のドアを開けて最初に目に飛び込んできた光景がこれでは、高坂の反応もおかしくはない。
 俺は桐生との間に距離を開けながら、彼女を見下ろした。
「ごめん、感情的になった。でも俺は――」
「いいから、もうどいてくれるかしら。邪魔よ」
 桐生はいささか乱暴にそういうと、俺の腕を潜って俺と壁の間から抜け出す。そして姿勢よくドアに向かって歩き出した。
 俺はそれを追いながら言葉を続ける。
「でも俺は諦めないから」
 そう言うと、桐生は長い髪をなびかせて振り返った。苛立った表情を浮かべて、目をきつく吊り上げて。
「何を諦めないの? ばかばかしい。じゃあ、あなたが代わりに殺してくれるとでも?」
「悪いけど、俺は殺人犯になる人生はまっぴらだ。だけど君がそこまで思うのには何か訳があるんだろ」
 俺は桐生の事情を知らない。桐生がどうして両親を殺してと願ったのか、その理由を知らない。だからそれを非難することはできない――神野がそう言っていた。そしてそれは正しいと思う。
「それをここで咎める気はない。そう願う程のことがあったんだろ?」
 そっと屈んで桐生の顔を覗き込む。けれど目が合う前に彼女は顔を逸らした。
「俺は桐生を諦めない。覚えてて」
 無理に目を合わせることはせずに、俺はそれだけを言って桐生を追い越した。
 固く閉じられたドアの前にはまだ高坂の影がある。小さく息を吐き出してから苦笑を浮かべて、俺はそのドアをゆっくりと開けた。
 ドアは横にスライドして開かれていく。ゆっくりと高坂の姿が見えてきて、その後ろ姿がびくりと跳ねた。
「高坂」
「お、俺は何も見てないから気にしなくていいよ! 誰かに言いふらしたりとかもしないし!」
 高坂はこちらに背を向けたまま少し声を張って言う。髪の毛の間から見える耳が赤くなっている――俺が言うのもなんだけれど、高坂はとても純朴な人間らしい。
「何か勘違いしてると――」
「いやもうほんと、俺誰にも言わないから! 安心して!」
「いや、だからな」
「でも学校ですることじゃないと思うよ、俺は……って違った。俺は何も見てないから――」
「高坂。俺の話を聞いてくれると嬉しいんだけど」
 俺は高坂の顔の前に手を挙げて、少し大きな声を出して彼の言葉を無理やりに遮る。そうでもしないとこのまま延々とこの調子が続きそうだ。
 高坂は驚いたのか目を見張って、強く唇を閉じた。
「高坂が見たことは確かにそうなんだけど、高坂が思ってるような事態ではないから」
 俺はそう言ったけれど、どうやら高坂には意味が伝わっていないらしい。
 首を傾げた高坂を見て、俺はどうしたものかと視線を漂わせた。そしてその先で反対側のドアから教室を出たのだろう、桐生の後ろ姿を廊下に見つけた。俺はそのまま角を曲がって消えた桐生を、目を眇めてぼんやりと見ていた。
「……やっぱり」
 ぽつりと呟かれた声に視線を戻すと、高坂が興味深げに俺と、そして先程、桐生が消えた廊下の角を交互に見た。
「波多野って桐生さんが好きなんだ?」
「……何でそうなるのか分からないけど」
「だって桐生さんのこといつも目で追ってるし」
「いつも=H」
「俺が気づいただけでも何度もあるけど。よく波多野は桐生さんを目で追ってる」
 何気なく言う高坂に俺は「そうか」と一言だけ返す。そしてもう一度、桐生が消えた角に目を遣っていると、高坂が「あっ」と声をあげた。
「でもやっぱり違うのかな? だって波多野、桜井のことは友達だって言ってたし……どっちかというと桐生さんを見る目は、桜井見てるときとか湖塚を見てるときとかと似てるかも」
 高坂はそれで納得したのかうんうん頷いている。俺はそれを見てから、同じように頷いた。
 無意識のうちに目で追う――それだけ桐生から気配が感じられるということなのだろう。
「とにかく桐生とはそういうんじゃないんだ。桐生のこと特別好きでもないし、そういう好きっていう感情もない。あれはちょっとした事故というか、ああしないといけない事態があって。不謹慎なことしてたわけじゃないから」
 高坂に教室に入るように促しながらそう言うと、高坂はほっとしたように微笑んだ。
「ま、波多野のことだからそうだろうね。あの時は焦って『見ちゃいけないもの見た!』って思ったけどさ。でも波多野に限ってそういうことしそうにないし。特に学校では」
 高坂はそう言うと、教室の後ろにあるロッカーに向かう。大きなスポーツバッグを見ながら、俺は自分の席に着いた。
「サッカー部は練習があったのか? こんなに早い時間から朝練?」
「まあね。というか、朝早い時間に練習するから朝練って言うんだよ」
 高坂は笑って俺を見ながら、後ろ手でロッカーに大きなバッグを押し詰める。
「俺も今年で引退だしね――もう、サッカーはやめるから」
「高坂、進学するんだろ? 大学でもサッカーは続けないのか? 背番号10番なのに」
「背番号10番の意味、知らないんだろー?」
 曖昧に笑って答えを返す高坂は、再びロッカーに向き直った。
 そういえば――と思い出す。
 柊が言っていた。どうして高坂はサッカー部のエースなのに普通科なのか、と。その理由を今まで聞く機会がなかったけれど、今なら聞けるかもしれない。誰もいない、この教室でなら。
「進学するよ。でもサッカーはしないんだ」
 高坂は少し低い声でそう言ってから、くるりとまた俺に振り向いた。その表情はいつも通りの笑顔だった。
 どうしてと、訊くことができない笑顔だった。

 

 

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