◇幕間◇
「これで全部ね」
俺が運んできた新しい本を隣で数えながら、桐生が言った。
夕暮れの陽射しが、大きく開放的な窓から差し込んでいる。
桐生は積み重ねられた新刊を手に取って、裏表紙を捲ったところに学校図書館の所蔵書であることを示すスタンプを手際よく押し始めた。
俺もそれを手伝おうともう一つスタンプとインクを取り出した時、カウンターから声がかかった。
「すみませーん。貸出お願いします」
「はい――って柊か」
にこにこと本を手に持ってカウンターに身を乗り出すようにしている柊に、俺は小さく息を吐いた。柊はそれに不服そうに頬を膨らませた。
「酷いです、そんな言い方。僕が来て嬉しくないんですか?」
「柊。学生証出して」
「酷いです、先輩……僕の言うことは無視なんですか?」
柊は言いながらも、しっかりと学生証を差し出してくる。俺はそれを受け取ってバーコードを読み取った。続けて悲しげな表情の柊の手から本を取って、裏表紙についているバーコードを通す。うちの高校では貸出カードではなく、ICチップによって図書室の本を貸出しているのだ。
パソコンの画面を確認してから、本の裏表紙を捲ったところに貼り付けてある返却期限票に、今日の日付に合わしてあるスタンプを押した。
「はい。返却期限は今日から二週間。忘れずに返しに来てください」
事務的にそう告げると、柊はさらに頬を膨らませた。
「先輩、付き合いが悪い!」
「図書室ではお静かに」
「先輩……」
柊は本を受け取りながら、むくれている。
「僕、今日から学校に復帰したのに……記念すべき日なのに……先輩のためにチョコケーキ焼いたのに……」
ぶつぶつと不服そうに呟く柊に、俺は苦笑を浮かべて椅子から立ち上がった。
「ごめん。俺は柊が無事に学校に登校できるようになって嬉しいよ。それは本当――でも柊。今日、園芸委員の仕事の日だろ? 確か」
俺がそう言うと、柊は頬を引き攣らせてから罰が悪そうに俯いた。
「そうですけど――」
「あんなに植物の心配してたんだから、委員の仕事サボるなよ。俺も仕事あるし、また後で――」
「じゃあ、一緒に帰りましょうね! 約束ですよ? 今日は僕、神野の家に呼ばれてるから途中まで一緒に――あっ。チョコケーキは神野の家に置いてありますから一緒に食べましょう!」
柊は突然表情を輝かせると、一気にそう告げて手を振りながら図書室から出て行った。本を選んでいる最中の生徒の何人かが、慌ただしい柊をちらりと盗み見ていた。
俺は苦笑を隠して、笑顔の柊に手を振り返す。そして柊の背中が見えなくなってから溜め息を吐いた。
元気なのはいいことだ。そうだ、それは間違いない。
けれど柊は、どうやら前にも増して俺に対しての好意が大きくなっているらしかった。柊がにこにこと俺に話しかけてくる度、俺は桜井が言っていた「お母さん」の件を嫌でも思い出すのだった。
あの日以来、柊の性格は明るくなった。前向きにもなって、一生懸命生きている。柊自身に思うこともあるのだろうけれど、それでも受け入れて前を向いている。それは俺としても喜ばしかった。
「仲がいいのね。前から思っていたけれど」
不意に掛けられた言葉に、俺は驚いて隣を見つめた。
「彼。一年生でしょう? 波多野君のところにお昼休みになるとよく通っていたのを何度も見たわ。最近は見かけなかったけれど」
「あぁ……ちょっと休んでたんだ」
喋りながらも休まず手を動かす桐生を見つめて、俺もスタンプを手に取った。
桐生の方から話しかけてくるなんて珍しい。というか、委員関係の話以外で桐生と話すのは初めてだった。
「彼、波多野君のことが好きみたい」
突然の桐生の言葉に、俺はスタンプを手から落としてしまった。それから思わず見開いた目を真っ直ぐ桐生に宛てる。けれど桐生は気にしていないのか、淡々とスタンプを押し続けていた。
「何? いきなり」
桐生の横顔を見つめて問いかけてみても、桐生が俺の方を向くことはなかった。
「私は事実を言っただけよ。実際、好きなんでしょう? 彼は波多野君が」
「それを桐生が知って何になるわけ?」
自然とひそめてしまった眉に、強張った声。それに気がついた俺は、桐生に向けていた顔を手元の本に戻して、顔をしかめた。
どうも俺は桐生千影が苦手だ。けれどこんな露骨な態度はどう考えても俺が悪い。
「ごめん」
小さく謝ると、桐生がこちらへ顔を向けた気配がした。
「何に対しての謝罪かしら」
淡々と、そして嫌味っぽく告げる桐生に少し苛立つ。けれどおそらく桐生はただ淡々と′セっただけであって、決して嫌味っぽく≠ヘ言っていないのだろうとは思う。俺の彼女に対する苦手意識とマイナス思考が、彼女の発言をどうしてもネガティブに捉えてしまうのだ。
「いや、その――嫌な言い方したから。俺」
「別に気にしてないわ」
桐生は素っ気なくそう言った。
俺は彼女の顔を盗み見るようにそっと視線を送る。桐生は既にスタンプを押し終えて、今は本を読んでいた。
綺麗に伸びた背筋に、癖のない艶やかな栗色の髪が流れている。桐生の横顔はさながら彫刻のようだ。
作り物のような美しさを持つ桐生千影。そう感じてしまうのはおそらく、彼女からあまり生気が感じられないからだろう。
俺は視線を戻して最後の本にスタンプを押すと、少し手で煽いでインクを乾かしてから本を閉じた。それから桐生が終えた分の新刊と一緒にして、返却された本とまとめて配架用の籠の中に置いておいた。
それから小さく息を吐き出して、視線をカウンターに落とす。
桐生が本を読むときは他人と関わり合いになりたくないときだ、ということを図書委員の仕事をするうちに気がついた。
俺自身も他人と関わることが相当苦手な人間なのに、さらにその上をいく人間に出会ったのは初めてだった。
「波多野君。あなたはどうして私にも普通に接するの?」
桐生は唐突にそう言った。
俺は驚いて桐生を見つめたけれど、彼女は本に目を落としたまま微動だにしていなかった。そんな桐生の横顔を見つめても返す言葉が思い浮かばず、口を結んで彼女の問い掛けの意味を頭の中で考える。
普通に接する――とは、一体どういう意味だろう?
確かに考えてみれば、桐生は良くも悪くも特別扱いを受けている。それは彼女の飛び抜けて美しい容姿と、他人を寄せ付けない態度が原因だろう。
桐生は同性異性関係なく羨望の眼差しを向けられているけれど――桜井もその内の一人だろう――、また同性異性関係なく、腫れ物に触るように扱われているのも事実だった。
俺は桐生を苦手だと思ってはいても、それはなるべく態度に出さないようにはしている。といっても、失敗することが多いけれど。桐生が言っているのはそう言う意味だろうか?
色々なことを考えてみても、やはり何も返す言葉が思い浮かばなかった。暫く沈黙して桐生の横顔を見つめていると、桐生はそっと顔を上げて俺に向けた。
視線が交錯する。桐生は俺を眺めるように見つめたまま、じっと俺の言葉を待っているようだった。その圧倒されるような視線に居心地の悪さを感じて、俺は思わず視線を逸らした。
いつだったか、新学期が始まって早々に、桐生にこの目で見つめられても笑顔で受け止めていた高坂を思い出す。そして心の中で高坂の凄さに今更気がついた。
「それ、どういう意味か俺にはよく分からないんだけど」
ようやく絞り出した言葉は、答えにも何にもなっていない中途半端なものだった。言ってから桐生へ目を向けると、彼女はそれに失望したように、何も言わずに視線を本に落とした。
赤い陽射しが、図書室の中に差し込む。きらきらと埃が舞う中で、ふと桐生が顔を上げた気配がした。何気なくそちらに目を遣ると、本を手に持ったまま一心に窓の外に広がる景色に魅入る桐生がいた。
いつも無表情な顔に、今は懐かしさと恐怖のようなものが浮かんでいた。
懐かしさと、恐怖。
その相容れないように感じられる感情に、俺は思わず眉をひそめた。
何か言おうかと思ったけれど、桐生は食い入るように景色に魅入っている。つられて俺も窓へ顔を向けた。
見えたのは、真っ赤な夕陽だった。美しいとは言えない、どちらかと言えば禍々しいような、そんな夕陽。
「逢魔時って、知ってる? 波多野君」
ふと俺の存在を思い出したように、桐生はそっと呟いた。俺は夕陽から目を放すことができず、前を向いたまま頷いた。
「知ってるけど、何で?」
俺もそっと零すように告げると、桐生が読みかけの本を閉じる音が聞こえた。
「魔に逢う時間とも書くけれど、大禍時とも――大きな禍の時とも書くのよね」
「そうだな」
桐生の言葉に、俺は小さく頷く。どうして桐生がいきなりこんな話を始めたのか、さっぱり見当がつかなかった。
桐生がゆっくりと俺の方へ顔を向けた気配がした。桐生の厳しい視線が突き刺さる。
「波多野君。大きな禍の時間、魔に逢う時間って、信じてる?」
「――何で?」
「私は信じているわ」
俺の問い掛けには答えずに、桐生ははっきりと言った。思わず夕陽から目を逸らして桐生へ顔を向ける。桐生は真っ直ぐと、掴みどころのない感情が籠った瞳を俺に向けていた。
「この世に妖怪や物の怪って、いるのかしら?」
「……何でそんなこと聞くわけ?」
「世の中には見えている人もいるような気がするからよ」
今度は俺の問い掛けに答えて、桐生は再び夕陽を見つめた。
その横顔が、その栗色の髪が、真っ赤に染まる――まるで、血に染まったかのように。
その瞬間、空気が色を帯びた。黒い、赤い、そんな気味が悪い色に。
一瞬にして変わった空気に、酷く不快な臭いが混じる。それは確かな臭いではなく、感覚で感じるような臭いだった。
ぞっとする空気に包まれて、全身が総毛立つ。
粟立った全身で不意に思い出す。柊が発作≠起した日、教室で一瞬だけ感じたあの空気と気配。茜色と栗色の残像が再び脳裏に過った。
「今日もきっとどこかで、物の怪が誰かの心に入り込んでいると、そう思うからよ」
桐生はまるで甘いことでも告げるように、そっと呟いた。
その周りに広がる禍々しい気配は、間違いなく物の怪のそれだった。
←002「終章」 怪奇事件簿トップへ 003「序章」→
小説置場へ戻る トップページへ戻る
|