◇終章◇

 

 あの日、大きく術円が描かれていた蔵の前は、今は何事もなかったかのように再び雑草が生え始めている。ぼんやりとそれを眺めていると、香の薫りを纏いながら神野が俺の隣に立った。
「何をしている? こんなところで」
 神野は着物の袖についていたらしい埃を払いながら、淡々と訊ねてくる。俺は真っ直ぐ前を見つめたまま肩を竦めた。
「何だろう……感傷?」
「観賞?」
 神野は怪訝そうに蔵を指差して柳眉を寄せている。そんな神野を見て、俺は肩を落として大袈裟に溜め息を零した。
「いや、そっちのカンショウじゃなくてだな……」
「そんなことよりも響。この香りはきつい」
 神野は着物の袖を鼻に近付けて嗅ぐと、目を閉じてゆっくりと首を振る。
「そうか? 俺はいい匂いだと思ったけど」
「ではお前が使えばいいだろう」
「俺の部屋で香を焚いたら、それこそきつい匂いしかしないだろ。この広い屋敷でちょうどいいくらいだ」
 父さんが贈り物として頂いた香木を、波多野家では消費できなかった。そこで出番が来たのが神野だ。波多野家の満場一致によって、香木は神野に贈られることとなったのだ。
 母さんは「神野さんならとても似合う」と喜び、父さんは「贈り物を贈るなんて申し訳ない」と言ってさらに和菓子を付け、俺は「神野なら引き受けてくれるだろう」と頷いて、贈るという名の押し付けを敢行することにしたのだった。
「だが私はこの香りは苦手だ。誰か貰い手が見つからないだろうか。……澄花などはどうだろう」
 どうやら神野は、贈り物の贈り物をさらに贈りたいらしい。俺はさすがにたらい回しの香木に申し訳なくなってきたけれど、家では消費できない香木を持って帰るわけにもいかない。
「桜井って香焚いたりするのかな……」
 神野と二人揃って顎に手を当てて悩んでいると、後ろから雑草を踏み締める足音が聞こえてくる。それに二人して同時に振り向くと、こちらへやってきていた人物は驚いた様子で目を見開いた。
「香、いるか」
 神野は前置きなしに、状況説明すらなしで問いかける。
「は?」
 てくてくと歩いてきた彼は片眉を吊り上げて、意味が分からないといった様子で神野を見上げる。彼の背後にはふさふさの白い尻尾が揺れていた。
「響の父上が頂いた香を、私が貰い受けたのだ。だが私はこの香りが苦手だ。お前が気に入るならお前に贈りたい」
 神野は言って、俺の隣に並んだ彼に腕を差し出して香の薫りが届くようにする。彼は胡散臭そうにしながらも、そっと鼻を近付けて薫りを嗅いだ。
「……いい匂いだと思うけど。っていうか、僕に練習しとけっていったくせに自分は油売ってるとかどういう――」
「では持って帰ってくれ」
 神野は彼の言葉を遮って言うと、さっさと踵を返して屋敷へと戻っていく。その颯爽とした後姿を二人で眺めてから、目を合わせて二人して苦笑した。
「ごめんな。押し付けの押し付けになって」
「いいえ、僕は別に構いませんよ。それよりも先輩、あいつってば酷いと思いませんか? 僕には練習しておけとか言いやがったのに、自分は響先輩のところに行くなんて! 抜け駆け禁止だってあれほど言っておいたのに、あいつほんと今度締めてやる」
 ぴこぴこと耳を動かせながら、彼――柊は不満そうに、そして不吉に右手で拳を作って左の掌に叩きつける。俺は頬を引き攣らせながら、不吉な文言を吐く柊をたしなめた。
「まあまあ。それより、練習は進んでる?」
 柊は小さく唇を突き出してから、頷いた。
「人間の姿に化けるのは完璧です。でも、結構面倒くさいんですよね……。でもでも、そろそろ学校にも行かなきゃいけないし、園芸委員の仕事も気になるし……ちゃんと世話してくれてるかなぁ」
「学校の花壇はちゃんと綺麗に手入れされてる。他の委員の子たちが頑張ってくれてるみたいだよ。柊が一番草木の手入れ頑張ってたからな、柊が休んでる間は自分たちが頑張るって言ってたらしい――同じクラスの園芸委員情報だけど」
「そうですか。よかった」
 柊は心の底からほっとした様子で呟くと、にっこりと微笑んだ。
「先輩。僕、先輩の役に立てるように頑張りますね! 善狐になったからには、僕だって先輩の役に立てると思うんです。千里眼だってあるし、もう神野と一緒にいても辛くないし。だから早く幻影を見せたり、炎を操ったりできるように頑張りますね」
 ふさふさと四本の尾を揺らして、柊は俺をじっと見上げた。俺は柊の言葉に苦笑して、頭を掻く。
「ありがとう。でも俺も神野の手伝いだから、結局は柊も神野の手伝いってことに――」
「僕はあくまで響先輩のお手伝い≠ナすからね」
 柊は俺の言葉を遮って強い調子で言い切る。そして一歩前に進んで、次の瞬間には人間の湖塚柊になっていた。尻尾はなく、耳も人間の位置についている姿になった柊は「どうだ」というように手を広げてみせた。
「早業です」
 そう言って悪戯っぽく笑う柊に、俺は微笑んで頷いた。
「それより先輩、どうしたんですか? こんなところに来て」
 柊は雑草が生えている辺りを手で示す。俺は術円が描かれていた場所を振り返って、少し目を細めた。
「あれから一週間経ったんだなって思って……本当に、無事で良かった。柊が野狐にならなくて、本当に良かったなって思ってたんだ」
 俺がぼんやりと零していると、いつの間にか柊は俺の隣に立っていた。
「先輩のおかげですよ」
 柊はそっと呟くと、目を伏せて続けた。
「僕、本当はあのとき、もう野狐に身体も心も渡してしまおうって思ったんです。それを引き止めてくれたのは、先輩だったから。『ここで待ってるから』っていう言葉、ちゃんと僕に届きました。それが僕を引き止めてくれたんです。先輩のために、先輩が待ってくれてる場所に戻ろうって」
 静かに話す柊にほんのりと胸が温かくなるのを感じて、俺は微笑んでいた。
「そっか――ありがとう」
 柊にそう言うと、柊は小さく頷いた。それからふと疑問そうな表情になった柊は、そっと首を傾げる。
「ところで先輩。あのとき、どうして僕が野狐に勝ったって分かったんですか? 僕、一言も喋れなかったのに」
「あのときって、俺が神野を呼んだときのこと?」
 訊ねると、柊は無言で頷く。その様子を見下ろして、俺は苦笑を浮かべて頬を掻いた。
「……勘」
「え!」
「ごめん。でも、なんとなくそうかなって思ったんだよ。肌を撫でてく空気が変わったし、瞳に光が戻ったし。でも、だいたい勘」
「勘って……じゃあ、もし先輩の勘が外れてたら僕って……」
「神野の術で完璧に死んでたかも」
「酷い、神野!」
「え、そこ神野のせいになるのか? 完璧に俺のせいなんだけど。俺の合図で神野は術を発動させたわけだし」
 柊はさくさくと雑草を踏み締めながら前に進んで、くるりと俺の方を振り向いた。そして優しげに目を細めた柊は、額の前に片手をかざして遠くを見るように俺を見遣った。
「先輩の心が見えます」
 そう言う柊の瞳は淡いすみれ色に染まっていて、不思議な光を放っていた。
「先輩が僕をすごく心配してくれて、助けようとしてくれたこと。神野の心も見えます。神野が先輩を信じて、僕の中にあった野狐を滅そうとしてくれたこと。二人がしてくれたこと全部が僕のためだったって、ちゃんと分かってます」
 柊は輝く笑みを浮かべて言った。
「だから僕は、先輩と神野のために生きることにしたんです」
 そう言って柊は善狐の姿に戻ると、すっと人差し指を唇の前に立てて「神野には内緒です」と言った。

 

◇   ◇   ◇   ◇
 

 世界には二種類の人がいる、と誰かがたとえ話をしていたのを、今でもずっと覚えている。小さい頃の僕は、自分なりに色んな方法で世界の人を二種類に振り分けていた。
 たとえば優しい人と冷たい人。頑張る人と、頑張らない人。
 こうして分けてみても、僕は結局どちらにも属せなかった。僕はこの振り分けの大前提である「人間」ではなかったから。
 それがはっきりと分かった今、僕はやっぱり世界中の人を二種類に分けるなんてことはできない。だけど、こんな分け方があってもいいんじゃないかとは思っている。
 この世界には、人と人ならざるものがいる。
 それなら僕は後者だ。
 でも後者の中にも色んな分け方がある。妖狐や善狐、鬼や天狗。上級の物の怪、下級の物の怪。挙げ始めるときりがない。
 人間じゃないという絶望を味わったけれど、僕はそれでも生き続ける。
 人間だろうが人間じゃなかろうが、僕が僕であることに変わりはないって僕に教えてくれた人がいたから。その人のために――その人たちのために、どんな姿になっても生きたいと思えたから。

 

◇   ◇   ◇   ◇
 

 

怪奇事件簿002 了...

 

 

back  怪奇事件簿トップへ  002.5「幕間」→

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system