◆八◆

 

 結局、あのあとは柊とじっくり話す機会はなかった。
 柊は園芸委員の仕事に、そして俺は俺で図書委員の仕事があって、そして翌日からゴールデンウィークに突入したために、あの昼休みに話したのが最後だった。俺は柊の連絡先はおろか、彼がどこに住んでいるのかも知らなかったから、どうやっても柊と連絡をつけることは出来なかったのだ。
 俺はごろりと寝返りを打つと、目を閉じた。
 浮かぶのは、柊の安堵の笑み。それを思い出すたびに、俺の胸はえぐられたように痛む。
 桜井が自分と同じように物の怪が見える人間だと知ったとき、俺は自分と重ね合わせてしまって、真実が見えなくなったことがある。それを神野に指摘されたこともある。
 今、俺は柊にあのときと同じことをしようとしている。自分と重ね合わせて、そしてこのまま進めば、また周りが見えなくなるに違いない。
 分かっているのに、分かりきっているのに、気持ちは止められない。これが間違いなく俺の悪いところだ。
 俺はむくりと起きあがって嘆息する。
 神野の不在から、早三週間。今日から五月だというのに、神野からは一切の報せがない。
 神野に関しても、彼の里とやらがどこにあるのか、またどうやって連絡を取れば良いのかも分からない俺は、ここでもまた一人置いてけぼりだった。少なくとも、神野は俺の家の住所も電話番号も知っているわけだから、連絡の一つぐらい寄こしてくれても良さそうなものなのだけれど、それを神野に求めるのも間違っている気がする。
 俺はベッドから足を下ろすと、携帯と財布だけを掴んでそのまま部屋を出た。
 こうして不毛な考えを堂々巡りさせても、何も生まれない。せっかくのゴールデンウィークなんだし、家に引きこもってばかりというのも、もったいない気がする。
 俺はとんとんと軽快に階段を降りると、真っ直ぐ玄関に向かった。
「響? どこかに出掛けるの?」
 靴を履いている最中の俺の背中に向かって、母さんの声がした。俺は靴から手を放すと、後ろを振り返って、ちょっとだけ顔を出している母さんに向かって頷いた。
「うん。外の空気でも吸ってこようかと思って。何か買ってくるものとかある?」
「ありがとう。でも何もないわよ。気をつけていってらっしゃい」
 母さんはそう言うと、柔らかな笑みを浮かべてひらひらと手を振った。俺もつられて笑顔になって手を振り返す。
 今思えば、高校生になってここまで母親と仲が良いのはいかがなものかと思う。普通の子なら、反抗期の一度や二度はあるのだろう。けれど俺は、それがないままに大きくなった。
 それは多分、俺がこの家の養子だからで、それ以上に両親が俺に深い愛情を注いでくれているからだと思う。俺はそれに遠慮して反抗しないわけでも、気後れして反抗しないわけでもない。ただ、反抗する気がまったく起きなかったのだ。多分、この家で過ごせば誰だってそうなると思う。
 外の空気は、お世辞にも爽やかだとはいえなかった。まだ五月なのに、陽射しは夏のそれに近付いてきている。じりじりと照りつけるような太陽は、それだけで人の集中力や体力を削ぐ。
 俺は長袖を肘までまくって、ゆっくりと歩き出した。
 当て所なく歩いていたはずの俺は、しかしその足がある場所に向かっていることに気付く。それはもちろんというか、やはりというか、神野の屋敷だった。
 次の角を曲がれば神野の屋敷前の道に出る。
 始業式の朝に会ったのが最後、それから神野の姿は見ていない。俺自身、学校が始まって、正面を切って「神野を気にしている」というのを見せる余裕がなかったのも事実だったけれど――湖塚柊という人間が俺の前に現れたからだ――それでも、心の片隅では常に神野のことを考えていたと言っても過言ではなかった。
 塀で隔てられているとはいえ、あまり人様の屋敷をじろじろと見つめるのもなんなので、俺は遠慮して真っ直ぐ前を向いて屋敷の前を通り過ぎようと決意した。
 けれど、その意志はすぐに砕かれることになる。
 ゆっくりと歩を進めていた俺は、ふと、屋敷の重い門が微かに開いていることに気付く。昨日までは固く閉ざされていた門だ。
 あれは、神野以外の人間が触れても、たとえ何十人がかりで力の限り押して開けようとしてもびくともしないという、曰くありげな門である。神野曰く「術がかけられているから、私以外の人間には開けられない」ということらしかった。
 けれどその門が、今は少しだけ開いている。
 俺は居ても立ってもいられなくなって、思わず駆け出していた。
 門が開いている理由はただ一つ、それは神野が開けたからだ。
 少しだけ開いた門の前に立って、息を整えることもしないままに、俺はそっと中を覗き込んだ。これを通りすがりの人が見たら、完璧に覗き魔だけれど、今はそんなことに気を留めている余裕はなかった。
 隙間から見えたのは、咲き始めた真っ赤な薔薇の花だった。次いで、剪定中なのだろうか、はさみが視界を横切って、ばちりと大きな音を立てて枝を切り落とすのが見えた。しかし場所が悪いのか、はさみを持つ人物まで見えない。――けれど、そのはさみが浮いている位置から考えて、少なくとも身長が180cm弱はある人間だと思えた。
 そう。小さな子どもではなく、大人だ。
 ふと、はさみの動きが止まって、くるりと人がこちらを向く気配がした。俺はその瞬間、自分が他人の家を覗き込んでいた事実に気が付いて、急に恥ずかしくなった。いくらなんでも覗き見はいけないだろう。一言、声を掛けるのが礼儀というものだ。
 門から一歩退いて、その人がこちらに歩いてくるのを待つ。それから間もなく、ぎいと荘厳な音を立てて、重い門が完全に開かれた。
 目の前に立っていたのは、懐かしい姿だった。
「響? どうして覗き見なんてしていた」
 神野は低い心地よい声で、訝しげに訊ねる。俺はその立ち姿だけではなく、怪訝な表情すらも懐かしくなって、思わず微笑を浮かべた。
「――神野、戻ってきたんだな」
 この屋敷に。着物を引き摺っていない姿で。
 あえて口に出さなかった言葉を神野は汲み取ったのか――神野が他人の心を汲み取れる人間ならば、だけれど――柔らかく微笑んだ。
「つい今し方。お前のところに連絡しようかと思っていたところだ。入れ」
 両手に切り取ったばかりらしい薔薇を抱えているために、手を使えないらしい神野は、顎で俺に指示を送ると、すたすたと庭へ向かって歩き出した。
「なんか雰囲気変わった。前はもっと刺々しかったのに」
 前を優雅に歩く神野に向かって呟くと、神野は心底呆れ返ったような表情を俺へ向ける。
「何が言いたい」
「別に何も」
 神野の地に(とどろ)くような声に、思わず臆して返す。
「里で力を養うのに成功したんだな」
 確かめるようにそう訊ねると、神野は低く唸ってから、躊躇いがちに頷いた。
「まあ、そうだな。だがこの姿がいつまで持つかは分からない。短くて三ヶ月、長くて半年といったところだな。この神気が私の身体の中から尽きるまではこの姿でいられるが、神気が尽きればまた子どもの姿だ」
 神野はそう言うと、振り返って俺と向き合った。
「手を出せ」
 神野は唐突にそう言うと「早くしろ」と視線を送る。俺はわけが分からないなりに手を出すと、神野は俺の手、というか腕に目がけて、ばさばさと両手一杯の薔薇を落とした。
「な、なっ――!?」
 急に薔薇を落とされて、驚かないわけがないと思う。俺は遠慮なく落ちてくる薔薇を受け止めようと必死になった。
「やる。私は要らないから」
「押し付け!?」
「……文句でもあるのか」
「……ありませんけど、何か?」
 不貞腐れながら真っ赤な薔薇を抱える俺は、傍から見れば滑稽だと思う。
 そうだ。神野はこういう奴だった、と思い出しながら、俺は取りあえず薔薇を置く場所を探すべく、辺りをきょろきょろと見渡した。
「学校が始まっただろう。友人は出来たか?」
「うーん……多分。桜井と同じクラスになって、あと同じクラスにもう一人、俺のこと気にかけてくれてた人がいたから」
「そうか」
 神野は俺の答えに、朗らかに頷く。
 俺はそんな神野を見つめながら、ふと、柊と桐生のことを思い出す。
 あの二人に初めて会ったときに感じた違和感。もしかして神野なら、この違和感を解消してくれるんじゃないか、という思い。
 俺は少し躊躇ってから、やはり訊ねることにして口を開いた。
「あの、神野? ちょっと気になることが――」
 俺が言い始めたそのとき、神野は突然きつい瞳を門へと向けた。先程までの穏やかな表情から一転したそれに、俺は思わず喉が締まって声が出なくなる。
 これは、アイツと――桜井に憑依していた物の怪と対峙していたときの神野の瞳だった。
「か、神野?」
 細い声を絞り出して呼び掛ける。けれど神野は俺の向こう側を厳しい瞳で見据えたまま、空中に素早く五芒星を描いた。
 門のすぐ外で突風が巻き起こったのが分かった。勢いよく振り返ると、その風の中に人がいるのが微かに見える。けれどそれが誰なのか、何者なのか、俺には分からなかった。
 神野はちらりと俺へ視線を落として、それから美しい顔を歪めた。
 神野が心底嫌った様子で、何事かを吐き捨てるように呟くと同時に、徐々に突風の勢いが止んでいく。俺には神野が何と言ったのかは声が小さすぎて聞こえなかったけれど、神野の表情からあまり良い事ではないだろうという察しはついた。
 門の外で風が収まっていく。突風の中で身を丸めていた人もそれに気が付いたのか、背筋を伸ばすと、真っ直ぐ神野を睨み据えた。
 それは湖塚柊、その人だった。

 

 

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