◆六◆

 

「響先輩!」
 会議室を出た途端、廊下の向こうから走り寄ってくる人物が大きな声で俺を呼ぶのが見えた。
 彼は俺を真っ直ぐ見据えると、少し不機嫌そうに顔を歪めていた。
「僕が朝言ったこと忘れたんですか? お昼休みに先輩の教室に行くって言ったのに」
 湖塚は仁王立ちで俺の真ん前に立って行く手を阻むと、大きな目をきっときつくした。可愛い顔立ちのわりに、そのきつい表情は湖塚にしっくりと馴染んでいる。
「そういえばそうだったっけ……」
 俺が朝の廊下での出来事を思い出しながら呟くと、湖塚は不満そうに頬を膨らませた。
「忘れるなんてひどいです。一体C棟で何の用事だったんですか?」
 湖塚はたった今、俺が出て来た会議室にちらりと視線を送る。
「湖塚――」
「柊です」
 湖塚はさらに不機嫌そうに、俺の言葉を遮った。
 これだけ俺が抵抗して「湖塚」と呼んでいるのに、湖塚は徹底して俺に名前で呼ばせたいらしい。
 名前で呼ぶというのは少し抵抗がある俺は、じっと俺を見上げる――睨め付けているといっても良いかもしれない――湖塚を見下ろして溜め息を零した。
 名前で呼び始めれば、きっと情が湧く。情が湧けば、目を逸らすことが出来なくなる。彼が何か厄介なものを持っていると分かっていても。
 それでも目の前にいる湖塚は、頑として譲らないだろうことも分かっていた。湖塚と初めて会ってからの二日間は毎日、一日に何度もこのやり取りを続けていたのだ。
 俺が湖塚を名字で呼ぶ度に、彼は必ず俺の言葉を遮って訂正する。
 今度は先程とは違う意味の息を吐き出して、俺は湖塚を見下ろした。
「分かった。柊って呼べば良いんだろ」
 降参の意を示して軽く両手を上げてみせると、湖塚――柊は先程までの不機嫌さを見事綺麗に消し去って、可憐な笑顔を浮かべた。
「これからもそう呼んでくださいね、先輩」
 輝く瞳を俺へ向ける柊を見下ろして、三度目の溜め息を吐く。
 どうやら俺はまた一つ、頭の痛い問題を抱えたようだ。そんな気がする。
「それで、何の用事だったんですか?」
 柊はまるで「それとこれとは別」とでも言うように、眉根を寄せて追及する口ぶりで俺に迫る。
 俺は少し申し訳ない心持ちになって、自然と小さな声で答えていた。
「委員会の用事。あのあと図書委員に決まって、それで今日の昼休みは委員会があったんだ」
 俺は息継ぎをすると、柊に向かってすぐに次の言葉を継ぐ。
「ごめん。俺の教室で今まで待ってくれてたの?」
 意識して優しく問い掛けると、柊は一瞬困ったような寂しいような、区別がつかない複雑な表情を浮かべる。
 それを見た俺は、柊と関わり合いになりたくないと思っていた気持ちが、すうっと霧が晴れていくように、心の中で消えていくのが分かった。
 我ながら現金だとは思う。けれど柊のあんな表情を見ると、つい自分と重ねてしまう。神野や桜井と出会う前の自分と。
 誰とも話をせずに学校から帰ってきた日。洗面所の鏡を覗き込んだとき、今の柊が浮かべたのと同じ顔をした自分が鏡に映っていた。
 寂しかった。自分から意図して招いた状況だったのに、寂しいとおこがましくも感じてしまっていた。
「そっか……ごめん。今度からはちゃんと覚えるようにするから」
 悲しい顔をした柊を見るのが苦しくて、思わず言葉が零れる。
 柊は束の間、驚いたように目を見開いて俺を凝視していたけれど、すぐに花の笑顔を俺へ向けた。
「先輩、図書委員なんですね。僕も図書委員になれば良かったなぁ」
「委員会には入ってないのか?」
「入ったんですけど、園芸委員なんです」
「園芸か……」
 園芸委員といえば、俺も何度か経験したことがある。
 なぜか俺は小学校から高校を通して、図書委員か園芸委員、はたまた文化委員に抜擢されることが多かった。高校に入ってからは、確か一年の後期と二年の前期に園芸委員だった。ちなみに図書委員も、高校一年の前期に一度経験済みだ。
「僕、植物は好きなので」
 植物は=\―つまり、植物じゃない何かは好きではないということだ。
 柊は笑顔でそう言ったけれど、俺には彼の瞳に暗い光がちらつくのが見えた気がして、気持ちが落ち着かなくなってしまった。
「園芸委員、頑張って」
 俺は心を静めながらそう言った。
 柊がどうして俺にここまで懐くのか、はっきりとした理由は分からない。けれど、彼自身が俺と何かしらの共通点を見出したことは間違いなさそうだった。でなければ、ここまで俺と関わろうとするはずがないからだ。
 俺はこのとき、再び柊と自分自身が重なるのを感じた。柊のこの様子は、神野と初めて出会ったときの俺と同じではないか、と。
 柊にどんな事情があるのかは分からない。彼がどんな問題を抱えているのかもまったく分からないけれど、助けたいと思った。
 力になれるのなら、とことん力になりたいと。

 

 

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