◆五◆
がらりとドアを開けると、図書委員の担当教諭らしい人物――残念ながら名前は知らない――が俺の元へと歩み寄ってきた。
「何年何組の委員かな?」
先生はそう言うと、名前を記入するのかシャーペンをくるくると回しながらノートに向かって視線を落とした。
「3年1組です」
淡々と義務的に答えると、先生は俺が発した言葉を追うようにノートに文字を落としていく。そしてクラスを書き終えるとぴたりと動きを止めて、目だけを上げて俺を見つめた。
「名前は?」
「波多野響です」
そう答えると、先生は再びノートへ視線を落として俺の名前を書きつける。手を動かしながら同時に、顔で教室の中を軽く示して、
「もう一人の委員さんはあっちに着席してるから、彼女の隣に座ってくれる? クラスごとに固まっておいて欲しいのよ。あと5分もしたら委員会始めるから。あっ、お弁当は食べてても大丈夫よ」
と言った。
俺はそれに返事をして、教室を見渡して桐生の姿を探す。一人だけ際立って目立つその姿を見落とすはずもなく、すぐに彼女の姿を見つけた。
きつい瞳で窓の外を見つめる桐生の長い髪が、少しだけ開かれた窓から入る風に揺れている。近付けばさらさらと音が聞こえそうなほど美しい髪を、桐生は鬱陶しそうに手で払いのけていた。
このまま無言で彼女の隣に行っても良いものかどうか思案していると、桐生は視線を感じたのか俺が立ち止まるドアの入口前に視線をやった。
一瞬だけ視線が交錯する。
それは本当に一秒足らずのことだ。桐生は俺と視線が合うと、顔色を変えずにすぐに目を逸らしたからだ。
桐生の瞳には何の色も乗っていなくて、俺は思わず後ずさりしそうになる。
初めて会ったときに感じた、あの違和感。
視線がかち合った瞬間にも同じ奇妙な感覚が心に広がった。けれどその正体は依然として掴めないままだ。
強い気後れを感じながらも、一歩ずつ彼女に近付いて行く。その間も桐生は窓の外に視線を送ったままだった。
行儀よく背中を伸ばして軽く椅子に腰かける姿は、深窓の令嬢という言葉がぴったりとくる。彼女の整った横顔を見ていると、同じようにとても美しい面差しの神野を思い出した。
微妙に間を取って桐生の隣の椅子に座った俺は、弁当を広げながら、どこだか分からない里へと帰ってしまった神野を束の間だけ思う。
元気にしているだろうか。
神野のことだから、きっと実家に戻ったといっても何も変わらず生活しているだろう。
けれど神野のご両親はどう思うだろう。立派な息子が、あろうことか小学生の外見になって帰ってきたのだ――。
弁当の中身を黙々と口に運びながらも、俺の心は唐突に苦しくなる。
神野は気にするなと優しく言ってくれた。けれど俺が神野の両親の立場なら、きっと俺を許さない。あんなに綺麗な――顔立ちだけではなく、心も清廉な神野の未来を奪ったも同然の俺を。
自然と箸を持つ手が動かなくなる。食欲も一気に失せて、俺は弁当を片づけると、背もたれに体重を預けて長い息を吐き出した。
こんなことを考えていると知られれば、きっと神野は怒るだろうな。
そう思えば思うほど、罪悪感が込み上げてくる。どうやってもそこから逃れることが出来ない俺は、頬杖をついて瞳を閉じた。
その瞬間、ふわりと花の香りが掠めていった。
これは多分、金木犀。
心が落ち着くその香りが漂うのを感じて、すぐに違和感を覚える。
この時期に金木犀? 金木犀といえば秋のはずだ。
「それじゃあ、みんな揃ったみたいだし委員会を始めます」
違和感に目を開けたちょうどそのとき、タイミングよく先生がそう告げる。
俺はちらりと前方に目をやってから、香りのする方へ視線を走らせる。その先にいたのは桐生だった。
桐生を見つめて小さく首を傾げる。彼女の香水か何かだろうか? いずれにしてもこの時期に金木犀が咲いているわけはないから、おそらくそうなのだろう。
あまり不躾に見つめては桐生も不愉快だろうと思って、俺はそっと彼女から視線を外した。
香水だろうと何だろうと、この香りのお陰で暗い思考から救われたと思うと、とても愛しく感じられた。
「放課後、図書委員には図書室に残ってもらって貸出などの当番をしてもらいます。担当は順番に持ち回りで、全学年の1組から始めるからね」
先生は自由に昼食を取る生徒を目の前にしながら、マイペースにそう告げる。もちろん昼食持ち込み可能なのだから生徒が悪いわけではないのだけれど、その中でも淡々と連絡事項を伝えられる先生に俺は少しだけ感服した。
「一覧表を作っておくから明後日に各々職員室の私のところまで取りに来てね。来週から当番をしてもらうから、各自一覧表を見て必ず担当すること。さぼったりしたらペナルティを科すからね」
先生は一気にそう告げる。先生の一言によって教室の各所で上がったブーイングにもまったく動じた様子がない。
次第にブーイングが大きくなる中、先生は奇妙に微笑みを浮かべる。
「あなたたち、委員になったんだからそれぐらい覚悟しなさい。ペナルティは一覧表に載せておくからそれもチェックしておくこと。以上、解散!」
先生は大きな声でそう言い切ると、さっさと教室を出て行ってしまう。
鮮やかな行動に俺は顔を少しだけ引き攣らせたけれど、これぐらい強引じゃないとサボる人間もいるということだろうと納得する。
俺も前に委員をしていたときには、平気でサボる連中がいて迷惑したものだった。
「私が明後日、波多野君の分も一覧表を貰ってくるわ。それで良いかしら」
不意に、透き通った不思議な声が聞こえてきて、俺は目を見開いて隣へ顔を向ける。
桐生は俺のそんな表情にも気を留めていないのか、無表情のままだ。
「良いの? 俺が取りに行こうかと思ってたけど」
「あなたよりも私の方が早く学校に着いているもの。先に私が取りに行ってあなたの机の上にでも置いておくわ」
桐生は淡々とそう告げると、席を立って歩き出した。
言い方が非常に可愛らしくない。
そう思ってからすぐに、俺自身も可愛げがないと周りには感じられているだろうことを思い出して、何とも言えない複雑な気持ちが心を覆った。
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