◆二十八◆

 

「柊!」
 刀を握り締めてから、柊に駆け寄る。神野が俺の腕を掴んで、後ろに引っ張った。
「先に裏庭へ行きなさい。湖塚柊は私が連れて行く」
「――分かった」
「裏に私が施した術円が描いてある。それを汚さぬように白い羽織を服の上からで構わないから羽織るように。私が祓いを済ませて神気で満たしているものだ。すぐに分かる場所に置いてある」
 俺はひとつ頷いてから、もう一度柊を振り返る。苦しそうに見開かれた目は、不安定に部屋の中を漂っている。その様子に顔を歪めてから、部屋を飛び出して裏庭へ向かった。
 軋む廊下を走る。夜の冷えた風を切りながら、柊を思う。
 もう二度と柊が怯えずに暮らしていけますように。柊が苦しまずに生きていけますように、と。

 

 屋敷の裏手に着いた俺は、息を整えながら辺りを見渡して絶句した。
 神野邸の屋敷裏手は、今までずっと放置されていた。大きな土蔵が建っているのだが、その前には雑草が伸び放題生え放題という散々な状態だったのだ。
 だが、それが今はすべて綺麗に取り払われている。そして剥き出しになった地面に、巨大な神野の術円が描かれていた。何で描かれたのかは分からないが、白く光を放っている。空気中にまで術の余波が及んでいるのか、術円を中心とした空気が澄んでいた。
 俺は神野が言っていた白い羽織を見つけて、それを羽織る。そして呆然と目の前に広がる途方もない規模の術が施された空間を見つめた。
 ここまでしなければ、柊は救えない。ここまでしなければいけない相手なのだ――柊を苦しめてきた野狐≠ニいう存在は。
 ぎゅっと清浄な羽織を握って、そして目を閉じる。俺も自分の役目を果たさなければならない。柊のために、巻き込んだ神野のために。
 じっと精神を落ち着かせていると、土を踏み締めて歩いてくる人の足音が耳に入った。俺は目を開けて音のする方を向く。いつもの着物の上に、白く光る絹の羽織を纏った神野が、柊を抱き上げて術円の中央を目指して歩いて来ていた。
 神野は俺を視界に捉えただけで何も声を掛けずに、術円の中へ足を踏み入れる。神野の足が縁の中に入った瞬間に、抱かれていた柊が目を見開いて叫び声を上げた。その身体に青い稲妻が走っている。
 神野はそれを淡々と見下ろしただけで、苦しむ柊に構わず中央へ進む。柊の苦痛に歪む顔が術から発せられている光に浮かび上がる。
 俺は強く刀の柄を握って、それから目を逸らさなかった。目を逸らしてはいけないと、自分に言い聞かせながら。
 神野は円の中心に苦しむ柊を横たえて、そのまま俺の元へやってくる。柊は身悶えしながら土を握りしめていた。
 神野は俺の隣でぴたりと止まる。俺が神野を見上げると、神野も俺を見下ろした。
「湖塚柊の身体は、既に限界に近い。ここで持ちこたえられなければ、彼は野狐になる」
「分かってる」
「お前も円の中に入って、湖塚柊の傍についていなさい。彼を引き止めるように尽力しろ。それが失敗すれば彼は死に、お前も無傷では済まない」
 神野の静かな言葉に俺は頷きを返す。それから刀を見下ろして、それに頼るように強く胸に抱えた。
「刀は借りたままでいい? 俺、約束したんだ」
 いつでも刀を抜けるようにすると。
 けれどその言葉を口にすることはできなくて、俺はただ神野を見上げる。神野は少し悲しそうに俺を見下ろしてから、ゆっくりと頷いた。
「お前はお前のすべきことをしろ。私は私のすべきことをする」
 神野は背後の柊を眇め見て、口を開いた。
「響――呑まれるなよ」
 神野は低く忠告するような響きをもって告げると、羽織をばさりとなびかせて踵を返した。
「良いか、野狐に何か言われたとしても相手にしてはいけない。お前は湖塚柊≠ニ善狐≠ノ呼び掛けろ。野狐≠ヘ無視しろ」
 俺は神野の後姿に口を引き結んで頷いてから、柊に向き直る。そして真っ直ぐ、円の中心に向かって、のたうち回る柊に向かって、歩き出した。
 俺が円に侵入しても、何も起こらなかった。柊の中に存在する野狐にだけ、この円の中の空気は苦しみを与えているのだ。呻き声を上げる柊の傍らに膝をついて、白く光る髪にそっと触れた。
 その途端、柊はかっと目を見開いて俺の腕を掴んだ。ぎりぎりと食い込むように尋常ではない力で腕を取られた俺は、その痛みよりも衝撃に気を取られてしまった。
「捕まえた、捕まえた……」
 彼はぶつぶつと呟きながら、顔を俺へ向ける。けれど瞳の焦点は俺に定まらずに、ゆらゆらと揺れている。狂気の色が浮かぶ瞳に、全身が粟立った。
「捕まえた、これが欲しい……これを手に入れられればこいつも諦める……これを食らえればこいつを殺す力も十分だ……」
 柊の声で発せられる言葉に、惑わされてはいけない。呑まれてはいけない。必死に自分に言い聞かせて、俺は右手に持つ刀に目を移した。
「こいつも……」
 俺に縋るように、俺の腕に全体重を掛けて起き上がろうとする彼を、俺は自由になっている右腕で無理やり地面に押し戻した。
 鞘を足で踏んで固定して、刀を引き抜く。月の光と術円から発せられる光とに、刃がきらりと輝いた。未だに焦点の合わない彼の瞳は、俺が刀を抜いたことを捉えているのだろうか。
 唇を噛み締めて、柊の腕に反りを押し当てる。途端に辺りの静けさを、柊の絶叫が破った。苦しみに目を見開く柊の瞳に涙が浮かんでいる。俺はそれを見下ろしながら、今度は痛みに耐えながらも俺の腕を掴んで放そうとしない彼の手の甲に刀を移した。
 手の甲に刀を押し付けようとした瞬間、それまで虚ろだった柊の瞳に光が戻った。それを認めた俺の手が、咄嗟にぴたりと動きを止めた。
「柊……」
 俺が呼ぶのと同時に、柊はぎゅっと目を瞑る。柊は俺の腕を掴んでいない方の手で、自分の手を俺から引き剥がそうとしていた。けれど柊の手は、がっちりと俺を掴んで放さない。柊の爪が肉に食い込む。白の羽織に血が滲んでいた。
「柊」
 必死になって俺の腕から自身の手を引き剥がそうとする柊に声を掛ける。柊は俺を見上げて、荒い息を吐いた。
「せんぱ――おねが……殺して」
 最後の一言だけははっきりと、柊が言う。俺は自分が握り締める刀を見下ろして、頭を振った。
「殺さない」
「お願い――」
「もし柊が野狐に負けたら――柊が死んだ時には、この身体を殺すよ。柊がそれを望むなら、俺がこの手で殺してやる。だから、今は殺さない。今、柊は死んでないだろ?」
 俺は刀を置いて、俺の腕に食い込む柊の手の甲に手を乗せた。神野の声が遠くで聞こえた気がした。
「もし、柊の中に少しでも俺に君を殺させる罪悪感があるなら――お願いだから、負けないでくれ。俺は柊を、この身体を殺したくないんだよ。だから、絶対に負けるな」
 柊は俺の言葉に目を閉じる。それからすぐに咆哮を上げて、再び狂気に満ちた瞳を俺へ向けた。

 

 

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