◆二十◆

 

 目が覚めた柊は、自分がいる場所がどこなのか一瞬分からなかったようだ。無理もない。いきなり知らない家の天井が見えて、しかも神野と俺に見守られて布団に寝かされていたのだ。俺だったら普通に狼狽するだろう。けれど柊は神野と俺の顔を見比べると、苦笑を浮かべてぼんやりと天井を見つめて呟いた――「僕はもう、家にも帰れないんですか?」と。
 その台詞は皮肉ではなく、悲痛だった。自分がいることで家族に迷惑がかかるということを、誰に言われずとも感じ取ってしまったのだろう。
 柊の台詞に、神野も俺も一言も返せなかった。神野ですら哀切な瞳で柊を見つめていた。
 実際、柊を神野の屋敷まで連れてきた理由はそれだった。人間と野狐をこれ以上同じ空間に置くことはできない。特に今の柊は、非常に危うい状態なのだから。
 神野は一呼吸置いてから、柊に淡々と告げた。尻尾があと一本増えたときに、完全に柊は野狐になるということ。そのときに精神を奪われれば湖塚柊≠ニいう存在は消滅すること。それを防ぐために、柊の身体の奥底で眠っている善狐を呼び覚ます必要があること。それをすると、柊は完全な善狐になるということ。けれどそれをしなければ、柊を救えないこと。そして俺が柊の善狐を呼び覚ますために、一番危険なときに柊の傍にいること。その間に、神野自身が柊の身体の中にある野狐を抹消すること。
 柊は目を見開いていたけれど、一度も話の腰を折ることなく大人しく話を聞いていた。そして話終えた神野を驚いた様子で見つめて、小声で訊いた。「僕を助けてくれるの?」と。
 神野はそんな柊の言葉にも「お前を救うのではなく、響を救うためだ」と返した。俺は慌てて神野の腕を軽く小突いて「神野は柊のことを救いたいから、こうして話をしてるんだ」と付け足した。
 柊は少し笑ってから、今度は俺を見つめて真剣な瞳で訊ねた。「僕が先輩を危険な目に遭わせるかもしれないし、下手をすれば僕が先輩を殺してしまうかもしれないのに、僕を助けてくれるんですか?」と。
 俺は柊を見下ろして「柊に殺されるなら、別に構わないよ」と告げた。神野は俺の隣で真摯な態度で頷いて「お前のためになら、響の命を懸ける価値があると判断した」と言った。
 柊の家族には神野から、当分の間、柊を神野邸で世話するということを説明するらしい。俺は神野がちゃんと説明できるのか少し不安だったけれど、結局神野にすべて任せることにして、その日は家へ帰った。

 

 

「ひびきー。まだ寝てるのー?」
 階下から呼ぶとき特有の、語尾を伸ばした母さんの声が聞こえて、はっとして目を開ける。慌てて時計を確認すると、時刻は――恐ろしいことに――八時を指していた。
 俺は勢いよくベッドから身体を起こすと、時計を手に持って顔を引き攣らせた。そして次の瞬間には時計をベッドの上に投げ出していた。寝起きのせいでもたつく足を叱咤しながらクローゼットまで直進して、中から制服を取り出して急いで着替えを済ませる。ネクタイを結ぶ時間も余裕もない俺は、首からネクタイをだらしなく引っ提げて、鞄を掴んで部屋を飛び出した。
 どたどたと慌ただしく階段を駆け降りる俺を見上げて、母さんは呆れたような視線を向けた。
「もう、何度も起こしたのよ?」
「寝坊した!」
 誰の目から見ても明らかなことを、俺は敢えて口に出して言った。というか、それ以外に台詞が浮かばなかったのだ。
 慌てて洗面所に掛け込んで、顔を洗って歯を磨く。幸いなことに寝ぐせはほとんどついておらず「これなら手間が省ける」と思いながら一度だけ櫛を髪に通して、掛け込んだときと同じように洗面所から廊下へ駆け出た。
「朝ご飯は? 食べないと駄目よ」
 母さんは慌てる俺に向かって、悠長にもそんなことを言う。俺は首を振りながら、母さんの手から有難く弁当を受け取った。
「ごめん、時間ない。弁当ありがとう」
 手短に伝えて家を飛び出すと、全速力で駆けだした。体育の授業でも出さないほどの力を振り絞りながら、腕時計を確認する。時刻は八時十分。着替えで時間をロスしてしまったらしい。
 家から高校までは走って十五分。このままだと門をくぐるのは八時二十五分だ。
 俺は頭の中で計算して、すぐに青ざめた。
 朝の予鈴が鳴るのが八時二十五分、そのときだ。始業チャイムは八時半なのだから、その時間までに着席していれば問題ないはずだが、うちの高校は違う。遅刻に関して異様に厳しいのだ。朝の予鈴が鳴った時点で教室にいないと、遅刻という散々な規則がある。このまま行くと俺は見事に遅刻して、反省文を原稿用紙四枚分も書かなくてはならない。
 それだけは避けたい。
 遅刻が嫌というよりも、反省文を書くのが嫌だ。そんな面倒くさいこと、なんで俺がしなくちゃならないのかさっぱり分からない。いや、遅刻するのが悪いんだけれど。
 昨夜は色々と考え込みすぎて、なかなか寝付けなかった。柊のこと、神野のこと、そして俺のこと――。そのいずれについても、どれだけ考えても答えなんて出ないことは分かっているのに考えずにはいられなかった。
 いつ柊の妖力が増すのかすら分からない。そんな曖昧な状態でそれぞれが動いていた。
 柊は、色々なことが一段落するまで神野の屋敷から出てこられないのだろうか。学校も休んで、いつくるのか分からない妖力の増加を考えながら、これからの日々を過ごすのだろうか。そんな辛い日々を、柊は送らなければならないのだろうか――。
 俺はそんなことを考えながら、必死で前に向かって足を押し出していた。

 

 

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