◆十八◆

 

 神野の肩越しに、眠る柊を見るともなしに見る。
 今、柊の尾の数は八本。それがあと一本増えたとき、柊は野狐になる。
 ごくり、と自分の喉が唾を呑みこむ音が聞こえた。ぼんやりとした目を神野に戻すと、神野も柊を振り返って見つめていた。その横顔が心なしか悲しそうに見えたのは、きっと勘違いではない。
「柊の尻尾が九本になるとき……それって、いつ?」
 ひそひそと声を落として問いかける。けれど返ってきたのは曖昧な返事だった。
「それは私にも分からない。だがおそらく、時は近い」
 神野はそれだけ言うと、そっと立ち上がって縁側に移動する。俺はもう一度、柊を確かめるように見つめてから、神野の背を追った。
 そっと障子を閉めて、縁側に座って庭を熱心に見つめている神野の隣に腰を下ろす。
「『中学生の頃までは一本だった』と、湖塚柊は言っていたな。その具体的な年齢は分からないが、おそらく十三歳から十四歳あたりまでは一本だったのだろう。そして彼は今、十五か十六――それを考えるとここ二、三年で彼の妖力は急激に増し、それに伴って尾の数も増加したということだ」
 神野はそう言うと、腕組みする。俺はそれを横目で捉えながら、花びらが浮かんでいる池を見つめた。
「それを考えれば、おそらくすぐにでも彼の尾は増えるだろう」
 ここ数年で急激に増したと考えられる柊の妖力。俺は蔵の中で炎をその掌に浮かべていた柊を思い出していた。
「妖力が増すのを食い止めることはできないのか?」
「無理だな」
 俺が縋るように訊ねたのにも、神野は顔色を変えずに返す。ぐっと言葉に詰まるけれど、今のこの状況下では希望的観測は必要ない。きっと神野は、すべてを見通した上で言葉を選んでいるのだろう。とてもそうは見えないところが、神野が損をしている部分だと俺は静かに思った。
「『完全な野狐になる』って、それはつまりどういう意味なんだ?」
「湖塚柊は今人間の形をした野狐≠セ。その言葉から人間の形をした≠ニいう部分を引けば良い」
 人間の形をした、を引く。つまり残る言葉は「野狐」のみだ。その言葉にある姿が脳裏に浮かび上がる。俺は池から目を剥がして、隣の神野を見上げた。
「柊は人間の姿でいられなくなるってこと? あの、白い耳と尻尾が生えた、狐の姿でしかいられなくなるってことなのか?」
 柊があの姿を受け入れているのなら、こんな思いはしない。でもあの柊の態度を考えれば、柊があの姿を受け入れているとは到底考えられない。
 神野は小さく息を吐くと、瞳を細めて厳しい顔つきになる。それが俺の問いかけに対する肯定の意だと分かって、俺は顔をしかめて俯いた。
 ぎゅっと強く拳を握る。こんなにも無力な自分が、どうしようもなく腹立たしかった。
 どうすることもできない。あと一本、たった一本、柊の尾が増えただけで、柊は人間の形すら失ってしまう。
 助けたいと、救いたいと、心の底から願っているのに。何の力も俺にはない。
 そっと俺の頭に温かい手が乗せられる。その手が労わるように俺の髪を撫でていくのを感じて、俺はさらに自分の無力さを感じて悔しくなった。俺はいつも神野に守られて、慰められて、自分では何もできない無力な子どもだ。その事実が、苦しかった。
「響――望みがないわけではない」
 神野は俺の顔を覗き込むようにして、はっきりとした声で言った。
 俺は驚いて神野の顔をじっと見つめる。その無言の問いかけに、神野はしっかりと頷いた。
「まだ、望みがすべて絶たれたわけではない」
 神野はもう一度そう言うと、俺の頭から手を外して再び腕組みをした。
「野狐にならせなければ良いのだ」
 神野の言葉に、俺は自分でも分かるほど目を丸くして神野を食い入るように、穴があくほど見つめる。
 野狐にならせなければ良い。簡単に神野は言ったけれど、その言葉の意味が俺には分からない。疑問をありありと顔に出して、俺は口を開いた。
「どういう意味だ? 野狐にならせなければ良いって……。だって今の時点で既に柊は人間の形をした野狐≠ネんだろ? もともとが野狐なんだったら……」
「私が言ったことを忘れたのか? 『あと一本、尾が増えれば完璧なる野狐≠ノなる』と私は言った。つまり、厳密に言うと今はまだ完全には野狐ではないということだ」
「――だから完全に野狐になるのを食い止めれば良い、って言いたいのか?」
 ゆっくりと、確かめるように口に出す。神野は俺の瞳を真っ直ぐ覗き込んで頷いた。
「そうだ。あいつが野狐になるのを食い止めれば良い」
 神野は言って、それから少し首を傾げて明後日の方向を見つめた。
「だが、そう簡単にいくものでもない」
 神野はぽつりと、まるで独り言のように呟くと、俺をじっと見つめた。
「野狐が妖狐であることは分かるな? 野狐になるということは、自我を失うということだ。今存在している湖塚柊≠ニいう自我は、彼が野狐に精神を奪われた時点で消滅する。彼は単なる妖怪に身を堕とすわけだ。妖怪に見境はつかない。傍にいるお前は、真っ先に危害を加えられるだろう。私の守り≠ェ施されているからといって、安心できる話ではない可能性が高い」
 神野は下駄を履いて、庭に足を下ろす。俺も近くにあった下駄に足を通すと、神野のあとを追った。
「私の守り≠ヘ対物の怪用に施したものだ。もちろん、妖狐や鬼といった類にも力は発揮するが、その昔、狐塚家の力は凄まじいものがあったと聞いている。その血を引く湖塚柊にどこまで私の守り≠ェ通用するのか、はっきり言って分からない」
 神野はくるりと俺を振り向いて、確かめるように俺を見下ろした。
「湖塚柊が野狐に精神を奪われたときには――お前は殺されるかもしれない」

 

 

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