◆十◆

 

 柊が去って行くのを呆然と立ち尽くして見つめるしか、俺には出来なかった。
 彼の涙から強い絶望と拒絶がうかがえて、それ以上どんな言葉も掛けられなかった。しばらくの間、脳の働きが止まってしまったようだった。
 俺は、随分と経ってから神野が肩に手を載せたのに我に返る。びくりと体をびくつかせて隣の神野を見上げると、神野は厳しい目つきで柊が去って行った方角を見つめていた。
 それを見て、俺の口から言葉が衝いて出る。
「神野は、柊の何を知ってるんだ」
 神野は俺へ視線を落とした。
「さっきも言ったが、これは湖塚の問題だ。私が勝手に話して良いことじゃないだろう」
 そう言って、神野は屋敷へ戻るべく踵を返した。俺はその後について歩いて、さらに食い下がる。
「柊はこう言っただけだ。『僕の正体を知れば、先輩はそんなこと言っていられなくなる。僕からすぐに逃げ出す』って。柊は一言も、勝手に正体を探るな、とは言ってない」
 俺が神野の着物の袖を引っ張って言うと、神野は呆れたように嘆息した。
「それは揚げ足取りというものではないのか」
「だとしても、柊は直接言ってないんだから良いってことだろ」
「あいつは言っていたが――『偽善なんてまっぴら』だと」
 神野は言外に、俺がやろうとしていることが偽善であるということを匂わせる。けれど俺はそれでも引き下がらなかった。
「捉えようによれば、偽善も善のうちだ。たとえその善が本心からじゃなくても、見せかけだけでも、善であることに変わりはない」
 神野は一種、呆然とした感じで立ち止まると、しげしげと珍しい生き物でも見つけたかのように俺を見つめた。その瞳には明らかに「馬鹿馬鹿しい」という色が宿っている。
「神野が知ってることを話して。俺だって、このまま何事もなかったように引き下がれない」
 俺が言うと、神野は盛大に溜め息を零して、こめかみに手を当てた。
「……どうしてお前は厄介事に自ら首を突っ込む? やっとそういうものから解放される立場になったというのに。お前はもう物の怪の類からは手を引け」
「それはつまり、柊が物の怪の類だって言いたいのか?」
 神野は俺の言葉に、心底苛立った様子で顔を背けた。それから神野は腕組みすると、数秒黙り込む。しばらく経ってから、神野は俺を見下ろして言った。
「違う」
 神野はその一言を呟くと、さっさと身を翻して庭を突っ切って行く。
 俺は神野の言葉をゆっくりと理解していきながら、少しほっとして、それからさらに不安になって、神野の後を急いで追う。
 俺が神野の隣に並ぶと、神野は待ち構えていたように口を開いた。
「あいつは物の怪ではない。それとは性質が違う――より厄介だと言える」
「どうして神野は、柊が湖塚だって知ってたんだ? 知り合いじゃないなら、何で?」
「それはさっきも言っただろう。湖塚柊は知らないが、湖塚家のことなら知っている。その一族が纏う、独特な気配もな。特にあいつはそれが強いからすぐに分かった」
「その、気配って何? 湖塚家って一体何なんだ?」
 俺は神野に届くか否かという、囁くような小さな声を出す。それしか出せなかったのだ。
 神野は厳しい瞳をして、眉根を寄せる。俺は息をするのも忘れて、神野の横顔に見入っていた。
 神野は縁側まで歩いて行く。前を見ずに歩いていた俺の歩を無理やり止めさせると――そうしてくれなければ、俺はそのまま縁側に膝を打ち付けていただろう――俺を縁側に座らせた。それから近くに置いてあった急須に手を伸ばして、神野は湯呑みにお茶を淹れる。
 なぜか用意されていた二つの湯呑みに淹れ終えると、神野は一つを俺の手に持たせて、もう一つの湯呑みを自分の口に運んでお茶を含ませた。
「あいつは――いや、あいつの一族と言った方が正しいか。湖塚の一族は、遠い昔は狐塚≠ニ名乗っていた一族だ」
「狐塚……?」
「そう。今の湖という字ではなく、狐という字を当てていた。これで私が言いたいことが分かるか?」
 神野は遠い目をして、再び湯呑みを口元へ運ぶ。
 俺は手に持った湯呑みを力強く握ると、言った。
「じゃあ、柊は狐だとでも言いたいのか?」
 神野は俺の方を向くと、視点を俺の顔へ合わせて難しい顔をした。それから頷きかけて、けれど結局首を左右に振った。
 否定の意。
 柊は狐ではないという、否定の――。
「完全な狐ではない。そこまでの気配をあいつからは感じなかった」
 じゃあ、柊は一体何だと言いたいんだ……?
「これはあくまで推測の域を出ていないが、十中八九、あいつは完全な人間ではないだろう。狐の血を強く引いている。厳密に言えば湖塚家は善狐(ぜんこ)であって、妖狐ではないはずなのだが……」
「……待って。だって、柊は普通の人間と変わらないじゃないか。見た目だって普通だし、雰囲気は多少独特だけど、でも――」
「雰囲気が多少独特? お前、一体あいつの何を見ている?」
 神野は怪訝な表情を浮かべて、俺を見下ろす。そして湯呑みを置くと、懐から懐かしい小刀を取り出した。
 神野が俺に身体を懸けて守り≠施してくれたときに、俺は神野から借りていた小刀を返していたのだ。
 神野はその懐かしい小刀を俺に押しつけた。
「私の守りで平和惚けでもしているのか? 小刀を持っていろ。あいつは一定の距離以上、お前に近付けないはずだ」
「柊が俺に近付けないなら、いらない」
「響!」
 神野は珍しく怒りを滲ませて声を荒げると、俺をきつく見やる。
 それでも小刀を取ろうとしない俺を、神野はそれ以上怒鳴るでもなく、ただ溜め息を吐いて小刀を懐にしまいなおした。
「お前が他人を見過ごせない性格だということを、ここを離れている間にすっかり失念していた。澄花のときもそうだ。自分と似た境遇だと思って、あの子を助けようとした。そして――湖塚柊のこともそうするつもりか」
 神野はそっと目を閉じて、静かに呟いた。
「湖塚柊に、お前は自分を映したんだな……」

 

 

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