◆二十五◆

 

「響、しっかりしなさい。止血は自分で出来るな?」
 気を抜けば意識を失いそうな中、俺は神野が押さえてくれているハンカチを自分自身で押さえながら必死で頷く。
 本当のことを言えば、今すぐにでも意識を手放してしまいたい。目の前で起きていることが想像の範囲を軽々と飛び越えてしまっていて、何が何だか理解すら出来ていない。
 目の前にいるアイツは桜井で、でも俺の知ってる桜井じゃなくて――。
「どうして? 私がかけた術は――」
「お前の眼はどうやら節穴らしい」
 神野は嘲りの笑みを浮かべて、呆然と立ち尽くす桜井へとゆっくり近づきながら言い放つ。彼女は神野の一言にあからさまな不快感を露わにする。
「それはどういう意味かしら?」
 口調こそ落ち着いているけれど、表面に現れる表情は怒りに燃えたぎっていた。
「私は響の家から私の屋敷までに前もって術を施していた。あらゆる術が無効、あるいは短時間ですぐに解けるように。つまりお前が何らかの手を打ってくるだろうと最初から予想していたということだ」
 淡々と種明かしをする神野に、桜井は憤怒の形相を浮かべた。
「そんなはずはないわ! この私が術を見落とすなんて――!」
「自分を過信するのも大概にすることだ。実際、私はここにいるのだから。それに私はお前が考えているほど弱くはない」
「――へえ? 確かに神野、貴方は柔じゃない。でも私の敵じゃないわ」
 桜井は片方の唇を引き上げて醜く微笑むと、ちらりと俺へ視線を走らせた。
「貴方は一人で戦えないもの。貴方は響を守りながら戦わなければならない――つまりお荷物を抱えているということよ」
 神野は桜井の言葉に微かに首を傾げてみせてから、桜井を見下すように少し顎を引き上げた。
「やはりお前の目は節穴らしいな」
 神野はぽつりとそう呟くと、目を伏せながら素早く右手を上げて空中に図形を描く。それに瞬間的に反応した桜井は一歩飛び退いた。
 次の瞬間、桜井がいた場所に神々しい光が溢れ突風が吹き荒れる。それがこの世とあの世から桜井の存在を消す神野の術だということに気が付いて、俺は息を呑んだ。
 眩しい光の中、目を凝らして前方を見つめる。けれど目の前の世界は鮮明にならず、ぼんやりとした人影が縦横無尽に駆け回っているのが見えるだけだった。
 時々聞こえてくる神野の声に安堵して、怒りの色を滲ませた桜井の声に全身が粟立つ。未だはっきりとしないまま広がる世界に、俺は焦燥に駆られる。間違いなく自分の存在を巡って繰り広げられている戦いに、当の自分はここでだらしなくへたり込んだままだ。
 どくどくと脈打ちながら流れだす血を止めようと、傷口に強くハンカチを押さえつける。そしてそのハンカチにすら神野の気が込められていることに気付く。何の前触れもなく自分の間近で吹き荒れた突風にさらわれそうになるハンカチをぼんやりとする意識の中、必死で逃がすまいと奮闘していると、突然自分のすぐ横で聞こえてきた桜井の声に戦慄した。
「これは、私のモノよ!」
 駄々をこねるかのような苛立ちを交えたその声に、背筋にひやりと冷たいものが一筋流れる。
 眩い光の中、すぐ隣で細い両腕が自分に向けて伸ばされる。俺は咄嗟に近くの地面に落ちていた小刀を引き寄せて、その腕へ刃先を向けて構えた。――けれど小刀が腕へと届く前に、その細い腕へ不自然に力が加わってすぐに腕の主ごとどこかへ消えてしまった。
「響に触れるな!」
 まさに自分の頭上から聞こえた神野の声に、俺は驚きながら顔を上へ向ける。今まで神野が声を荒げるところなんて、一度として見たことがない。怒りに捕らわれていたとしても、神野は決して怒鳴ったりしない人間だった。その神野が怒号をあげたのだ。
「神野――」
 自分の口から出た声は、予想よりはるかに小さく掠れている。けれど神野にはその声が聞こえたようで、微かに俺を見下ろした。
 徐々に光と風が収まっていく。はっきりとしてきた視界の中で、神野は無傷なまま真っ直ぐ前に向き直って桜井の元へと歩き出す。対する桜井は、傷こそ負っていないものの見るからに疲れ果てた様子だった。
「上級と言っても大したこともない」
 神野は小声でそう呟いて、一歩も動こうとしない桜井に向かって右手を上げる。次いでゆっくりと五芒星を描き出す――けれど突然、その動きがぴたりと止まった。
 突然止まったその動きに、出血のせいか段々と狭くなる視界の中で俺は必死に目を凝らしながら神野と桜井の様子を窺う。すると神野は足を止めて、確認するようにちらりと俺を振り返った。その表情は解せないといったもので、明らかに桜井に対して疑念を抱いているようだった。
 神野が再び桜井の方へ振り向くと、桜井の肩が小刻みに震えだす。逃げることもせず、ただ立ち止まっているだけの桜井を怪訝そうに神野が見下ろした瞬間、桜井は弾かれたように顔を上げて、まるで狂気に取りつかれたかのように大声をあげて笑い出した。
 桜井は辺りに響くほどの笑い声を上げると、お腹を抱えて体をくの字に曲げた。くくくと喉の奥で笑いを噛み殺しながら桜井は言った。
「確かに貴方は私が思っていたよりも、ずっと力がある。この上級の私でさえ、いとも容易く抹殺できるほどの力がね」
 そして桜井はすぐさま笑いを消し去って、俺を真っ直ぐに見つめた。
「でも忘れてない?」
 桜井は凍りつくような視線を俺へ投げながら、すっと手を挙げて俺を指さす。
「貴方が私を抹消すれば、あの子、死ぬわよ」
 桜井のその言葉に、神野はびくりと体を震わせると、桜井に注意を払いながらも俺の方を慎重に振り返った。
「今、他の物の怪が響に襲いかからない理由、貴方には分かるでしょう? 響が今、出血してる中生きているのは、何も貴方のハンカチのお陰じゃない、私が他の物の怪を抑えてるからよ」
「それがどうして、お前を消せば響が死ぬという結論に至る」
 神野は桜井を振り返って静かな声で訊ねた。
「あら、分かってる癖に。つまり、私が存在する限りあの子は生きられるということよ」
 桜井は楽しそうにそう言うと、笑みを戻して俺へ微笑んでみせた。
「貴方が私を抹消すれば、私が抑えている物の怪は一斉に響へ襲い掛かるわ」
「低級でも上級でも、響を襲うモノは私が消す」
「頼もしいわね。でも、考えても見て。貴方は四六時中響と一緒にいられるわけじゃないでしょう? 必ず響が一人になる時間があるわ――そうなればどうかしら?」
 桜井は艶やかに小首を傾げると、俺から神野へと視線を移す。
「あの子の守り≠ヘもう解けたもの。貴方の小刀や霊符じゃ、到底対応しきれない」
 守り=\―? 桜井から発せられた言葉に、咄嗟に反応して小さく繰り返す。すると神野はもう一度俺を振り返った。
「何が言いたい」
 顔を俺へ向けて、悲しげに眉根を寄せながら神野は桜井へ向かって呟いた。桜井は神野の言葉に笑みを広げると、周りに反響するような不思議な声で言った。
「――取引しましょう。貴方の命と引き換えに、響を見逃しても良いわ」

 

 

back  怪奇事件簿トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system