◆二十四◆

 

 冷えた手を喉に押しつけながら妖艶に笑む目の前の彼女――桜井に、俺は言葉もなく見つめ返すことしかできない。
 桜井が発した言葉の意味も、何も考えられない。
 からんと乾いた音がして、視界の端で小刀が地面に落ちたのが見えた。その音につられたように桜井は地面へ視線を落とすと、眉根を寄せた。
「あら、戦意喪失かしら。それは困っちゃうわ」
 独特の艶やかな声で桜井はそう言うと、俺のポケットの上から霊符を抑えた。
「小刀でも霊符でも何でも使って抵抗してくれなくちゃ、殺しがいもないわ」
 桜井は俺へぐっと顔を近づけて、その言葉の持つ意味をまったく意に介さずにそう囁く。
「抵抗した上であなたは私に殺されるのよ。殺さないでと無様に懇願しながら」
 桜井の冷たい手が俺のこめかみから頬を柔らかく滑っていく。けれどそれからすぐに、妖艶に微笑んでいた桜井の表情が醜く崩れていった。
「――忌々しいこの顔。十五年間、忘れたこともなかったわ。この顔――」
 顔を醜く歪ませながら、桜井は爪に力を入れた。その途端、肌が避ける感触が頬に広がる。次いで生温かい血が頬を伝って行くのを感じた。
「あの女にそっくりね。愚かにもこの私の邪魔立てをした、あの忌々しい女――貴方の母親に」
 桜井のその言葉を聞いて、俺ははっと我に返る。母親、とかすれた声で繰り返すと、桜井はいささか興味が湧いた様子で俺の瞳を覗き込んだ。
「そう、母親。貴方の母親よ」
 桜井は口元に嘲笑をありありと浮かべながら、顔を寄せて囁く。
「せっかくだから教えてあげる。貴方の母親はね、私に殺されたの」
 そう言いながら、桜井はこれ以上ないというほどの妖艶な笑みを浮かべた。
「お前が、殺した?」
 俺の口から思わず漏れた言葉は震えていた。
「そう。でもきっかけは貴方なのよ? あの女、貴方を守ろうとしてね、邪魔だったのよ。だから私が殺したの」
 目の前の桜井は優しげに目を細めながら冷たくそう言い切った。
 その言葉に、その表情に、心の中で何かが生まれたのを感じる。恨めしいとか、憎いとか、そんな言葉じゃ言い表せないもっと強い衝動。
「神野は貴方に何も教えなかったのね。あんなに私を貴方から遠ざけようとしてたのに、本心では貴方が死んでも良いと思ってたのかしらね」
 桜井はそんな俺の心の変化に気付かないのか、俺の喉元に置いていた手の力を緩めながら、ぼんやりとした様子で空中へ視線を漂わせてそう言った。俺はその様子を湧きあがる感情とともに見つめながら、渾身の力を込めて自分を押さえつけている桜井を突き飛ばした。
「俺に触れるな」
 ふつふつと心に生まれる感情に逆らうことなく、燃えるような目で睨みつける。すると桜井はきょとんとした表情で、今俺に突き飛ばされた自身の肩をそっと触った。
 殺してやる――その醜い言葉が俺の頭を支配する。とにかく目の前にいるコイツを始末しければいけないというその一心で満たされていく自分を、冷静に振り返る余裕なんてなかった。
「お前が俺の母親を殺したのか? どうして! 俺を殺せばよかったのに、どうしてお母さんを――!」
 憎しみと悲しみが綯い交ぜになって落ち着かないまま、俺はそう叫んでいた。
 瞳に涙が込みあがってくるのが分かる。けれど俺はそれに気を止めている余裕もなかった。
「そう感情的にならないでくれる? 面倒くさいわね」
 桜井は深く溜め息を吐くと、吐き捨てるようにそう言った。
「あのね、私は親切で教えてあげたのよ。それにそんなのもう関係ないじゃない? ――だって貴方だって私にもうすぐ殺されるのに」
「だったらお前を道連れにする」
「お生憎様。そんなことにはならないわ」
 桜井はそっと首を傾げて品定めでもするかのように俺を上から下まで見つめた。
「もしかして、霊符や小刀があるから大丈夫だとでも思ってる? あんな子供だまし、私に効くわけないでしょう」
 そっと一歩を踏み出しながら、彼女は微笑んでそう言う。
「もしかして、神野が助けに来てくれるとでも思ってる? 残念、あいつは屋敷から出られないわ」
 さらに一歩、俺に近付きながら、桜井は楽しそうにそう言う。
「私が貴方を殺すとき、神野に邪魔されないようにちゃんと術を施してきたの。あいつが一歩も屋敷から出られないように、術をね」
 こつんと靴音を響かせながら、桜井は指を一本立てて口元へ運んでにっこりと微笑んだ。
「神野がいなくても、誰の助けがなくても、俺はお前を殺す」
 少しずつ近づいてくる桜井を直と見据えて、俺は一歩も退くことなく背筋を伸ばしてそう言った。
「あらあら、頼もしいこと」
 桜井はそう言うや否や、俺との距離を一気に詰めるべくふわりと身軽に飛び上がった。
 俺はそれに合わせて霊符をポケットから取り出すとそれを発動させる。これでコイツを始末できるとは思ってはいない。とりあえず牽制になれば、と思ったのだ。
 辺り一面に神々しい光が満ちて冷たい風が吹き抜ける。その瞬間、神野の力が一帯に満ちるのが分かる。
 光と風が治まると、目の前には何もいなかった。先程まで確かにあったはずの桜井の気配すら一切残っていない。慌てて後ろを振り返るけれど、そこにも何もいない。まさか、この霊符で始末できたわけはない。
 一体どういうことだ、と考えを巡らせていると、首筋に冷たい何かが掠めていった。
 次の瞬間、ぽたりと紅い滴が地面に滴り落ちるのが見えた。
「な――?」
 そう声を出すのと同時に、首筋に鋭い痛みが走る。ぼたぼたと自分の血が、一気に服や地面を紅く染めていく。
 無意識に首筋へ手を運ぶと、その手を強い力でひどく冷たい手に掴まれた。
「勢いの割には大したことないのね、波多野君」
 ぼんやりとし出した瞳に、桜井の姿が映し出される。それは先程までの妖艶な姿のアイツとは違う、いつもの桜井の姿と声だった。
「せっかく選択肢をあげたのに」
 今度は妖艶な笑みを浮かべてあだっぽい声を出しながら、限りなく優しく彼女はそう言った。
 全身から力が抜けていく。出血量が半端じゃないのが、またたく間に俺の周りが血の海と化していることから分かる。
 がくりと膝をついた俺を助けるように支えながら、桜井は唇を俺の首筋へとゆっくり運んだ。
「でも仕方ないわ。貴方が悪いのよ。もう大人しく――」
 あと数センチで首筋にその唇がつく。
 けれどそれが触れる前に、桜井は素早く身を翻して俺と距離を取った。
「ど、どうして――!?」
 気が付いたときには、桜井は醜く顔を歪めながら目を大きく見開いて俺の後方を見つめていた。
 次の瞬間、柔らかく温かな何かが俺の首筋に触れた。
「――あの子供だましの術のことか? あんなもの、寝てても解けるばかばかしい代物だ」
 静かながらも全身が粟立つほどの怒気含んだ声が俺の隣で紡がれる。
「響、遅くなって悪かった」
 そっと隣に屈みこんで俺の首筋にハンカチを押さえつけながら、神野は静かにそう言った。

 

 

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