◆二十三◆

 

 甲高い機械音が鳴り響く。俺は不機嫌な気持ちで音の出処をばしりと叩いて、不愉快な音を叩き止めた。昨夜は早く――十時過ぎには――眠ったけれど、さすがに朝の四時半に起きるのは辛い。
 これは一種の嫌がらせなのだろうか――俺が神野を避け続けたことに対する。
 そうだとしてもいくらなんでも「早朝五時に家に来い」はないと思う。いや、常識的に考えて有り得ないと思う。まあ、常識が通じる相手じゃないけれど。
「何考えてるんだよ、神野……」
 思わず天井を見つめながら独り言を呟く。言ってから、ここでぐだぐだしていても仕方がないと考えてむくりと体を起こした。
 今日はどこか肌寒くて、布団から出た体が震えた。温かな布団の中から出ることを体は拒否するけれど、自分の理性でそれを無理やり押しとどめる。そしてそのまま勢いよく――勢いでもつけないとベッドから足を下ろせなかったのだ――クローゼットまで歩いて行くと、手早く着替えを済ませた。
 着替え終えて音を立てないようにドアを開閉する。一応両親には朝五時に出掛けるとは伝えていたけれど、こんな早朝にうるさく物音がするのは良くないだろう。そっと足音を立てないように階段を下りると、洗面所へ入って身支度を整える。それを終えて時計へ視線を走らせると、既に四時四十分だった。
 それを見て、少し急いで玄関まで歩いて行く。約束の時間に遅れると、神野に何を言われるか分からない。たとえ非常識な時間に呼びだしたのが神野でも、だ。
 靴を履いてそっとドアを開けて外へ出ると、朝の澄んだ冷気が俺を包んだ。それを無意識のうちに深呼吸で体の中に取り込む。
 今日じゃなくちゃいけない用とは一体何だろう。しかもこんな朝早くから。まさか仕事だろうか? でもそれならそうだと言いそうだし。
 俺の誕生日を祝う、ということは絶対にないと思う。この間、電話で話した時に一瞬でもその考えを浮かばせた自分自身が嫌になったほどだ。
 朝の寒さの中、そんなことを考えながら一人神野の屋敷へ向かって歩く。神野の用事とは一体何なのか考えを巡らせる俺の耳へ突然、自分のものではない誰かの靴音が届いた。
 それに気付いて一瞬だけ足を止めると、その靴音は俺の背後からゆっくりと近づいてくるようだった。その靴音の主に意識を集中させて、俺は不審に思いながら少し早足で歩き出した。
 こんな早朝に俺以外に誰かいるのか? 新聞配達の人なら自転車かバイクに乗っているはずだから、これはそれじゃない。朝帰りの人とか?
 でもそれにしてはおかしい。俺が立ち止まったときはゆっくりだった歩調が、俺が早足で歩き始めたら途端にそれに合わせるように相手も早足になったのだ。
 俺は気取られないように気をつけながらポケットへ手を伸ばした。中に霊符と小刀があることを確認して、小さく深呼吸を繰り返す。
 物の怪ではなさそうな気もする。あの独特の雰囲気は感じられない。でも物の怪じゃなくても、もしかしたら不審者かもしれない――。
 思考がぐるぐると巡る。もし物の怪なら霊符を使うとか小刀を使うとかして自分の身を守らないといけない。でももし普通の人――たとえ不審者だったとしても――なら、俺の方がよっぽど不審者になってしまう。
 そう本気で考え込んでいたその時、背中にどんっと強い衝撃が走った。その衝撃で前のめりになり、瞬間、しまったという言葉が頭を過った。俺は慌てて体勢を立て直すとポケットに手を突っ込んで小刀を握りしめ、勢いよく振り返った。
 すると目に入ったのはにっこりと微笑む桜井だった。けれどその笑顔は、俺の表情を見てだんだんとなりを潜めていった。
「ご、ごめんね。驚かせるつもりはなかったの」
 眉をへの字にして申し訳なさそうな小声で桜井がそう言った。
 俺はそんな桜井を見つめながら、ほうっと息を吐き出した。
「桜井? 何でこんな時間に外にいるの?」
 自分のことを棚に上げて、俺は辺り一帯を示してそう言った。
「……それは波多野君もじゃない? どうしてこんな時間に外に?」
 桜井は的確にそう指摘すると、不満げに頬を膨らませた。
「俺はちょっと、用事があって」
 手短にそう告げると、桜井は首を傾げて少し微笑みながら俺を見上げた。
「それは奇遇だね。私もなの。ちょっと用事があってね」
「こんな朝早くから? 一人で大丈夫なのか?」
 こんな朝早くに女の子一人で外に出るというのは、いくらなんでも不用心じゃないだろうか。本気で心配しだした俺をよそに、桜井は鈴のような声で小さく笑い声をあげた。
「うそうそ。用事があるっていうのは本当だけど、別にこんな朝早くじゃなくてもいい用事なの。今外にいるのは、ちょっと眠れなくて、っていうのが理由」
 桜井はそうぼんやりと前を見つめながら言うと、俺を見上げて、
「その理由はわかったけどね」
 と、にっこりと晴れやかな顔で笑って桜井はそう言うと、俺から視線を外して真っ直ぐ前を向いた。
「眠れなかった理由が?」
「うん、わかった」
「それは良かった。じゃあ、帰って眠れば? まだ朝早いし」
 並んで歩きながら俺はそう言うと、腕時計に目を落とした。時計の針は既に四時五十五分をさしている。ここからなら少し早歩きすれば、なんとか五時には間に合うだろう。
 俺はそう思って、歩く速度を緩めずに隣の桜井を振り返る。
「ごめん、桜井。送って行ってあげたいんだけど、そうもいかないんだ。ちょっと急いでて――」
 俺が桜井にそう言った瞬間、空気が不穏に揺れた。一瞬にして、辺りを包む気配が変わったのが分かる。底冷えのするような冷気がどっと俺へ押し寄せてきて、一瞬それに呑まれそうになる。
 息を吸えば喉が凍りつきそうなほどの冷気に、俺はぎゅっと目を閉じる。その刹那、視界の端に物の怪がいるのが見えた。
 体が急速に冷えていくのが分かる。心臓まで凍りつきそうなほどの悪寒を感じて、次いで物の怪の気配を感じる。俺は拒否しようとする目を無理やり開くと、周りの状況に言葉を失った。
 物の怪がいる――それも一匹どころではない。低級から中級まで、その数ざっと見渡しただけでも三十は下らないだろう。しかも揃いも揃って殺気を纏っている。
 一体この一瞬のうちに何が起こったんだろう。さっきまでは何事もなかったのに、桜井と二人で普通に歩いていたのに――。
 辺り一帯の物の怪を見渡しながら考えがそこまでたどり着くと、無意識のうちに桜井を探し出す。けれど隣にいたはずの桜井はこつぜんと姿を消していた。
 ここは危険だ、と頭で警鐘が鳴り響く。桜井を神野の屋敷まで行かせなければ、下手をすればこれに巻き込まれて命を落としかねない。
「桜井……!」
 辺りに満ちる殺気の中で、声を振り絞る。桜井だけでも逃がさなければ、という思いに駆られて、じりじりと物の怪たちが距離を詰めて来るのを視界に入れながら、俺は必死の思いで桜井に呼びかけた。
「桜井!」
「ここよ、波多野君」
 絞り出された俺の声に返事をしたのは、極めて落ち着いた桜井の声だった。俺はほっと安堵して声のする方へ振り返ると、目を見開いた。
 桜井の声を発したのは、間違いなく桜井――のはずだ。だとしたら目の前にいるのは桜井のはずだ。
 ――けれど俺は目の前の彼女を知らない。
 桜井の姿形をしているけれど、目の前の彼女は桜井じゃない。微かに桜井の気配が感じ取れるけれど、纏っている雰囲気が桜井じゃない。目の前の彼女が浮かべている表情は限りなく妖艶で、そして地の果てまで落ちるような残忍さだ。
 じりじりと物の怪が大挙して押し寄せて来る中、その彼女はその様子を気にも留めずににっこりと微笑んだ。
「波多野君? どうしたの?」
 まるで何も起こっていないかのように笑顔を湛えながら、桜井は俺へ一歩一歩近づいてくる。
 俺は咄嗟に小刀を取り出すと、本能的にそれを桜井へ向けた。けれど彼女はそれすら意に介さないように笑顔を崩さない。
 その上辺だけの笑顔に恐怖と嫌悪感を覚えて、頭の中で鳴り響く警鐘が俺に告げた――コイツは物の怪だ、と。
「近寄るな」
 何とか絞り出した声は震えていた。
「あら、いつもの威勢の良さが消えちゃったわね。この間は身を呈して私を守ってくれたのに。今日は私を守ってくれないの?」
 くくくっと喉の奥で嘲りの笑いを洩らしながら、桜井は俺へ一歩近づいた。そしてそれに相反するように、先程まで距離を詰めようとしていた物の怪たちは一歩ずつ退いて行く。まるで何かに怯えるかのように桜井を直と見据えながら。
 桜井の姿をした彼女は躊躇なく手を伸ばして、小刀を持つ俺の腕を右手で強い力をもって引き寄せると、流れる動作で左手を俺の首元においた。彼女に触れられた瞬間、まるで自分自身が凍りついてしまったかのように動けなくなる。
 冷やりと冷えた彼女の手が首元にそっと置かれたとき、すべての意志が崩れていった。途端に動けなくなった俺を見つめて桜井は妖艶に笑むと、周りの物の怪たちに向かって静かな低い声で告げた。
「お前たち、分かってるわね? これは私のモノよ」
 彼女のその一言で、一瞬にして辺りにひしめいていた物の怪たちが姿を消す。瞬間、先程まで満ちていた殺気が、たった一人のものを残してすべてかき消えた。
 俺は未だ動けないまま、目の前の桜井を見つめる。そこから放たれるとてつもないほどの殺気に、憎しみに、心がすくんでいくのが分かる。
 俺が目を閉じたあの瞬間に、桜井に何が起きたというんだ。目の前にいるのは桜井じゃない。間違いなく物の怪だ。それもきっと上級の――。
 目の前から放たれる威圧感に動けなくなった俺を見て、桜井は楽しそうに微笑んだ。
「痛くない方が良い? すぐに意識を失いたい?」
 そう言いながら彼女は喉元へと冷たい手を移動させた。
「波多野君、あなたは友達だもの。選ばせてあげる」
 彼女は俺の耳元で限りなく優しい声でそう囁いた。
「私から十五年越しの誕生日プレゼントよ――波多野響」

 

 

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