◆十三◆

 

 朝、白い息を吐きながら外を歩く。コートにマフラー、さらには手袋という完全防寒態勢をとっていても、寒さは体に染み入るようだった。寒さにうんざりしながらも、それでも学校を目指して歩を進める。
 角を曲がって神野の屋敷前の道に出た俺は、門の前に佇む人物を見て目を見開いた。
「神野?」
 白い息を吐き出しながら小さく呟くと、決してその声は聞こえなかっただろうに、神野はこちらを振り向いた。そして俺を直と見据えると、その場から一歩も動かずに俺が自分の元まで歩いてくるのを待っている。それを見て、俺は少し歩を早めた。
「珍しいな、こんな朝から外に出てるなんて」
 神野の目の前に立って白い息と一緒に言葉を出すと、神野は穏やかな表情で頷いた。
「今日、学校が終わったら真っ直ぐに家へ来なさい」
 神野は挨拶もなしにそう言うと、俺の返事を待つように俺をじっと見つめる。俺も神野をじっと見つめて、少しの間考えるように沈黙する。
 神野は知っているはずだ。毎日、俺が桜井を家まで送り届けていることを。つまりこれは、桜井を家まで送らずにここまで来い、ということだろうか。
 神野は俺がずっと黙ったままでいる理由に気付いて、深い溜め息を吐いた。けれどその口から漏れた息は白くなかった。
「分かった。あの子を送り届けてからで良い。とにかく来なさい」
 神野は少し刺のある言い方でそう言うと、さっさと踵を返して門の中へ入って行った。
 俺はその神野の後姿を見つめて、心が痛むのを感じた。いつも素っ気ない神野だけど、神野はきっと俺が桜井を心配するのと同じように俺を心配してくれているのだと、このときはっきりと分かったのだ。
 ――白い息が漏れないほど体が冷え切るのに、一体どれほどの時間がかかるのだろう。

 

 

 ぼんやりと席について外を眺めていると、チャイムが鳴るのが遠くで聞こえた。それから教室は一瞬で、雑談に花を咲かせる生徒の声で満ちる。
 飛んでいた意識を引き戻して机の上に乗っかっている教科書とノートを片づける。残すところホームルームだけとなった今日の時間割に、俺は頬杖をついて小さく溜め息を吐いた。
 実のところ、どうすべきなのか自分でも分からなかった。桜井を放ってはおけないという気持ちに変わりはなかったけれど、そう思う度に神野の姿が頭をちらつく。
 神野は俺を邪険に扱っているようで、実際は俺のことをよく考えてくれていたし、俺がどんなに自分勝手に行動しても俺を見捨てずにいてくれている。
 けれど神野の言うとおりに桜井と距離を置けば、桜井はどうなるだろう。俺が桜井を見捨てれば、桜井は物の怪に襲われても誰の助けも借りられずに、色んな思いをたった独りで受け止めてやり過ごしていくんだろうか。神野と出会う前の俺のように。
 桜井にとって神野や俺は、数少ない理解者なんじゃないのか? 俺が神野に助けてもらったとき、どんな手を使ってでも神野と関わりを持とうと躍起になったのは、あのときの俺にとって、神野だけが俺が見ている世界を肯定してくれる人物だったからじゃなかったのか? なのに俺は今、桜井を見捨てようと言うんだろうか。
 神野を裏切るような真似は出来ない。けれど桜井も放ってはおけない。その決して相容れない思いの狭間で、俺は未だに揺れていた。

 

 物思いに耽りながらホームルームをやり過ごした後、俺は結局いつもどおりに桜井の教室の前で彼女のクラスのホームルームが終わるのを待っていた。あの物思いで答えらしい答えは出なかったけれど、一つだけはっきりとしたことがある。
 俺は神野の存在に救われた。だからこそ、もしも俺の存在が桜井の気を少しでも休ませることが出来ているのなら、ずっと桜井の傍にいよう、ということだ。こればっかりは神野の警告を聞き入れられない。神野が俺にしてくれたことに感謝しているからこそ、桜井を見捨てられないのだ。
「波多野君?」
 いつの間にか俺の目の前に立っていた桜井は、俺が静かに考え込んでいるのを見て取って、俺の顔をそっと覗き込んだ。
 いきなり目の前に桜井の顔が現れて驚いた俺は目を見開きながら、勢いよく顔を引いた。するとその行動に傷付いたように桜井が苦笑を浮かべた。
「ごめんね。脅かすつもりはなかったの」
「いや、俺こそごめん。ぼーっとしてたから」
 伏せがちに小さく呟く桜井に、俺は慌ててそう言う。
 すると桜井はもう一度苦笑を浮かべてからゆっくりと歩き出した。俺もそれに合わせてゆっくりと歩いて桜井の隣に並ぶ。
 桜井は俺が隣に来たのを確認すると、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「あのね、波多野君。今日って時間ある? ちょっと寄りたいところがあるんだけど」
 桜井は期待するような視線を俺へ向けると、きらきらと瞳を輝かせる。俺は思わずその視線から目を逸らして眉尻を下げた。
「ごめん。今日はちょっと時間なくて」
 俺が言葉を濁しながらそう答えると、桜井は何かに気付いたように、ああ、と呟いた。
「神野さん? 何か用事があるの?」
 神野の名前が出たことに一瞬どきりとしてから、平静を装って頷く。
「ああ、多分」
「多分?」
 はっきりとしない俺の答えに、少し笑いながら桜井が繰り返す。はっきりと何の用事が聞いていなかった俺も、少し笑いながらもう一度頷いた。
「じゃあ、お願いなんだけど」
 桜井は少し首を傾げて俺を見上げた。その言葉に、俺は隣で歩く桜井に顔を向けて見つめ返す。
「明日って、空いてる? ほら、せっかくのお休みでしょ。ちょっとどこかに出掛けない?最近ずっと学校と家の往復が多かったから、退屈なの」
 桜井は俺の反応を確かめるように俺を見上げ続けている。その視線には俺に対する期待と懇願が乗せられていた。
 それに気付いて、俺は小さく唸り声を上げる。確かに桜井が物の怪に襲われているところを助けてからの一カ月以上、桜井はあまり外に遊びに行っていない様子だった。友達と遊ぶのも控えているらしい。それを知っていた俺は、もちろんその提案を断れるはずもなかった。
「良いよ。どこ行きたいの?」
 あっさりと俺が承諾すると、桜井は歩を止めた。急に立ち止まった桜井に気付いて、俺も歩を止めて桜井の方を振り向くと、桜井はきょとんとした様子で俺を見つめていた。
「どうかした?」
 俺がそう声をかけると、桜井ははっとした様子で照れ笑いを浮かべながら歩き出す。
「ごめん。まさか波多野君がいいよって言ってくれると思わなかったの」
 相変わらず桜井は頭と口が直結しているらしい。正直すぎる言葉に俺が苦笑いを浮かべると、慌てた様子で桜井が右手を勢いよく振った。
「あの、悪い意味でじゃないんだよ?」
「じゃあ、どういう意味だったんだ?」
 俺がすかさずそう返すと、桜井は言葉に詰まった挙句、笑って誤魔化(ごまか)すという古典的な方法に逃げ込んだ。

 

 

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