◆十二◆

 

「ただいま」
 玄関でそう声を掛けると、奥からぱたぱたとスリッパの音がして、かちゃりとドアを開くと母さんがひょっこり顔を出した。
「おかえり、響」
 母さんはそう言うとにっこりと微笑んで、それから手にしたお玉を示すと、夕食の準備の途中だと言うことを暗に知らせる。そして俺の髪が少し湿っているのに気付くと、心配そうに顔を歪めた。
「外、雪が降ってるの?」
 母さんはそう言うと慌てて顔を引っ込めて、居間の窓から外を確認すると間もなく、降ってるわねー、という少しはしゃいだ声が聞こえてきた。
 俺はそんな母さんの言葉に微笑んで、靴を脱ぐと居間へ入った。そして少し曇りかけた窓から、しんしんと雪が降っているのを母さんの隣に立って見つめる。神野の屋敷にいたときには本当に微かな雪だったのが、今ではしっかりとした大粒の雪へと変わっていた。
 母さんは窓から視線を剥して台所へ引き返すと、お玉を置いて火を止め、そそくさと台所から姿を消して、すぐにタオルを持って戻ってきた。
「そんな濡れたままじゃ風邪をひくわ。早く乾かしてね」
 母さんは子供にするように俺の頭をタオルで優しく拭くと、にっこりと微笑んだ。俺は小さな子供に返ったような錯覚を一瞬だけ起こして、なんだかほんわかした気持ちを抱く。そしてすぐにそう感じたことに気付いて、苦笑を浮かべた。
「ありがとう。でも、自分で出来るよ」
 俺は言いながらタオルを母さんの手から受け取ると、自分で髪をがしがしと吹き始める。母さんは照れたような俺の様子を見て、にっこりと微笑むと夕食の支度に戻るために台所へと戻って行く。その後ろ姿を引き止めるように、
「何か手伝うことある?」
 と俺が聞くと、母さんは穏やかな様子で首を振った。
「ありがとう。でもないわよ。響はテレビでも見て待ってて。……あっ。そう言えば」
 母さんはそう言うと、はっとした様子でテーブルの上に置かれていたメモを持って、俺の元へ引き返してきた。
「あなたが神野さんのお家に遊びに行ってる間にね、電話が掛ってきたわよ。女の子から」
 母さんはやけに嬉しそうに最後の一言を付け足すと、俺にメモを手渡した。そのメモには母さんの字で「桜井澄花」という名前と、その下に電話番号が書かれていた。
 俺はさっきの神野とのやり取りもあって複雑な心持ちでその名前を見つめていると、母さんは少し悪戯っぽく笑って、
「彼女?」
 と聞いてきた。
 俺はその問いかけに思わず苦笑を浮かべると、ゆっくり首を振りながら答える。
「違うよ、友達」
 俺があまりに冷静に答えたことに母さんは面白くないというように唇を尖らせた。
「響ってこう、どこか肝が据わってるわよね。あまり動じないっていうか。普通こういう場合、本当に違う場合でも慌てそうなものなのに」
 母さんは小さく息を吐くとそう言って、妬ましそうに俺を見つめた。俺はその視線を受けて、さらに苦笑を大きくすると、ごめんごめん、と呟いた。
「でも、響ならすぐに彼女とか出来ると思ってたのになぁ。世の女の子は一体どこに目を付けてるのかしら」
 母さんは最後にそう言って不服そうに眉をしかめると、また台所へと戻って行った。俺はその後ろ姿を見送ってから、メモに視線を落とす。
 桜井澄花と書かれた名前を見つめると、先程の神野とのやり取りを嫌でも思い出してしまう。神野の最後の一言が、胸にずしりと圧し掛かる。桜井を助けたいと、自分が味わってきたような辛さを味わわせたくないと、必死で守ろうともがいてきたけれど、それは無駄だったのかもしれない。桜井には俺の想像を超えるような何かがあるらしい。それは俺ではとても手に負えないもので、神野ですら予想が出来ないもので――。
 俺はメモをポケットにしまい込むと、ソファにどっと座り込んだ。これ以上考えるのは苦痛だった。

 

「ごちそうさま」
 かちゃりと箸を置いてそう言うと、父さんは訝しげに俺の顔に視線をやった。
「もう良いのか? あまり食べてないじゃないか」
 父さんはそう言うと、立ち上がった俺を見上げる。
「具合でも悪いのかな。だったら薬を呑んで――」
 父さんはそう続けると、俺と同じように立ち上がって、薬を探そうと視線をうろつかせた。俺はそれを咄嗟に止めると苦笑を浮かべた。
「ありがとう。でも大丈夫。ちょっとお腹空いてなくて。……神野の家で、少し食べてきたから」
 両親が揃って心配そうな表情を浮かべるので、俺は咄嗟に嘘をついた。大抵こう言えば、二人とも納得してくれるのだ。
 そして今回も納得してくれた二人は、ほっとした表情を浮かべると二人揃って、あんまり遅くまで起きてたら駄目だよ、とまだ夜の七時にも関わらず真剣な表情で言うので、俺は分かったと言って頷いて見せる。それから台所を後にすると、自分の部屋へ向かって階段を上って行った。
 いつでも二人があんまり優しいので、俺はいつも申し訳なくなる。優しくされると嬉しいけれど、それと同時に申し訳なくなるのだ。二人は何も隠しごともせずに真っ白な気持ちで俺に向かってくれるのに、俺は無意識のうちにいつもどこかで心に壁を作っている。
 二人を巻き込みたくないと思って。
 物の怪が見える変な人間だと思われたくないと思って。
 それがいつも、優しい両親に対して抱く俺の罪悪感の原因だった。

 

 どさっとベッドに倒れ込むと、ポケットからメモを取り出した。そこに書かれた名前と電話番号をじっと見つめて、それから携帯電話を取り出す。自分の思考が追い付かないところで、勝手に数字を入力して発信ボタンを押す。
 耳から聞こえてくるのは機械的な呼び出し音。それに聞き入ること数十秒、携帯電話の向こう側からいつも間近で聞こえている声が飛び出した。
「もしもし?」
 桜井の声が聞こえて、俺は安堵に息を吐いた。
「もしもし、波多野です」
 改まって俺がそう言うと、受話器の向こうで桜井が驚いたように小さく声を出した。
「俺がいない間に家に電話があったって聞いて。何か用事?」
 電話の理由を手短に話すと、俺はベッドから起き上がって話を聞く態勢に入る。けれど桜井は躊躇ったように言葉を詰まらせた。
「桜井?」
 なかなか話そうとしない桜井に疑問を投げかけると、桜井は受話器の向こうで息を深く吸い込んだ様子だった。
「あのね、特に理由はないの」
「え?」
「だから、電話したの、特に理由はないの。ただ、元気かなって思って……」
 桜井は小さな声で、さらには尻すぼまりにそう言った。最後の方はほとんど聞き取れない程だった。
「ごめんね。あの、波多野君の家の電話番号は電話帳で調べたの。ごめんね」
 桜井は、聞いてもいないのに俺の家の電話番号を調べた方法を告白すると、謝った。別に謝るほどのことでもないと思ったけれど、よくよく桜井の声を聞いてみると、いつものような覇気がないことに気付いた。
 きっと何かがあったに違いない。
 直感でそう感じると、俺は少し緊張した声で桜井に問いかける。
「どうかした? 何かあったんだろ?」
 桜井は俺の問いかけに一瞬息を止めると、すぐさま長く息を吐き出した。それからまた躊躇いがちに話し始めた。
「……あのね、何か変な気配がして」
 桜井はそこまで言うと、俺の反応を待つように言葉を切った。俺は桜井の言葉に考え込むようにしばらく黙り込んでから口を開く。
「変な気配って?」
 桜井は俺の質問に困った様子で浅い呼吸を何度か繰り返すと、小さな声で言う。
「それが、分からないの。とにかく変な気配がして。それで、気がついたら波多野君の家に電話してたの。外に出るのは怖くて、だからせめて電話で声が聞けたら、と思って……」
「今は? 今もまだ変な気配はする?」
 桜井の答えを聞いて、少し身を乗り出す様に俺は早口でまくしたてる。桜井は少し間を置いてから息を吐き出すと、
「ううん。しない」
 と短く答えた。
 その答えに安堵して俺も小さく息を吐くと、良かった、と呟いた。
「ごめんね。なんか余計な心配させちゃって。でも、もう大丈夫だから」
 桜井は無理に明るい声を出そうとして、失敗した。その声はどう贔屓目(ひいきめ)に聞いても寂しげな色で満たされていた。
「いいよ、別に。大丈夫ならそれに越したことはないし。それに、その時に家にいなくて電話に出れなくてごめん」
 桜井の寂しげな様子が目に浮かぶようで、俺は瞳を閉じてそのイメージを振り払おうともがく。桜井の寂しげな顔は想像もしたくなかった。
 彼女には自分が味わったような気持ちは味わわせたくない、と心のどこかで願っている。桜井は少なくとも俺を信頼してくれているのだと感じたからこそ、余計そう思うんだろう。信頼する人に見捨てられるのは、関係ない人に無視されるよりも辛い。それは、心がちぎれるほどの痛みを伴って、全てを闇色に蝕んでいく。
 神野は、俺以上に厄介だからと言って、桜井に深入りするなと警告した。それは俺を心配してくれてのことだと分かっている。分かっているけれど、到底聞き入れられそうもなかった。

 

 

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