◆一◆

 

 午後八時三十六分。俺は荘厳な屋敷の中、美しい日本庭園が眼前に広がるこの縁側で、お茶を飲んで一息をついた。池には三日月が妖しく、それ以上に美しく俺の目に映り、見惚れてしまうほどだった。すると、背後で人の気配を感じて、俺は振り向かずに、
「どうして一人で住むのにこんなに大きな屋敷が必要なんだ?」
 と、その人に向かって聞く。すると、その人は自分の分のお茶を持って、俺の隣に微妙な距離をとって腰を下ろし、美しい声でこう言った。
「狭いと窮屈だろ? 私は狭い、小さい、そういうものが苦手だ」
 声に少しだけ不快感を出して、その人はぼんやりと空に浮かぶ星を眺める。冬の空は空気が澄んでいて、星が綺麗に瞬いているのが見えた。
 俺の隣に座るこの人の名は、神野(かみの)(とおる)。この屋敷の所有者で、年齢は知らないけど、たぶん二十五くらいだと思う。女性かと見紛うほどの美しい容貌をしているが、本人曰く立派な男性らしい。今の俺にとって神野は上司みたいなものだ。上司といっても、会社の上司とかそういうわけじゃない。第一、俺はまだ高校生だし。
 それにしてもこの屋敷は大きすぎるだろ、と声には出さずに少し呆れて神野を見てから、周りを見回す。この屋敷の部屋数は、数えたことはないけれどきっと尋常じゃないはずだ。狭いとか小さいとか、いくら苦手だっていってもなあ、とやっぱり呆れて隣に座る神野を少し見てみる。
「でも、お前もこの屋敷が気に入っているはずだ。仕事が終わった後は、必ずここに寄っている」
 と、俺の視線を感じてか、神野は美しく整った顔を俺の方へ向けて言った。
 俺は改めて周りを見回してみる。手入れが行き届いた庭、埃ひとつないんじゃないかと思えるほど綺麗に磨かれた廊下。縁側にたどり着くまでに通ってきた部屋もしっかり管理されているといった感じで整っていて、でもちゃんと神野の生活が隅々に感じられて、とても居心地が良い。
「ああ、居心地は良いと思う。それに仕事が終わった後に、この庭の池に映る月を見るのが好きなんだ」
 生きて明日を迎えられそうだということが実感できるから、と声に出さずにそっと思う。きっと神野は、俺のこの思いを感じ取ったのだろう。
「月を見てそう思うなんて、お前は珍しい。大抵は太陽や、その下で輝いている生き物を見て、眩しい世界の中で生きていることを実感するものだ」
 と、静かな声で言った。
「そうかな――そうかもな。でも、俺にとっては月こそが、生きてるって感じられるものなんだ」
 そう俺が言うと、少し表情を険しくして、
「あまり良いことではない。特にお前にとっては」
 そう咎めるように言う。神野はじっと俺を見つめて、俺の心に触れようとするかのように、すっと俺の左胸を指さしてみせた。
「もっと生きているということを感じて、活き活きとしなくては。月を見て明日を迎えられることを実感するのは、お前のような人間には良くないことだ。心の隙間に入り込まれる」
 静かすぎるその言葉は、胸に突き刺さるようだ。ぐっと胸が痛くなって、思わずうつむいてしまう。
「それでなくても、昼間でもお前はいろいろなものを引き寄せてしまうのだから」
 相手を吸い込むような目を向けて、神野はそう言った。うん、と俺はぽつりと言う。なんだか叱られた子どもみたいだな、と自分でも苦笑いしてしまう。
 神野は言いたい事を言ってしまうと、お茶を一口飲んで、
「今日はご苦労だった。響のおかげで仕事は順調に進んだ。今日はもう帰りなさい」
 と、今日初めて俺の名前を呼んで、そう言った。神野を見ると、もう俺とは話す気がなさそうに、しっかりと星を見つめていた。俺はそれを理解して、そっと庭を横切って門を出た。最後に、空に浮かぶ本物の月をちらっと盗み見て。

 

 波多野(はたの)(ひびき)。それが俺の名前だ。もっとも、この名前になったのは十一年前だ。それまで俺はただの「響」だった。
 俺が一歳のとき、父は蒸発したらしい。詳しいことは知らないけど、母は俺に寂しい思いをさせまいと、必死で俺を育ててくれていたそうだ。
 母は元々裕福な家の出身の人で、金銭面で苦労をしないようにと、俺にとって祖父母に当たる人たちが、母を実家に呼び戻したらしい。母はそこで大切に俺を育てていた。けれど俺が、母に不幸を運んでしまった。
 生まれたときから俺は、「何か」を惹きつける存在だったそうだ。祖父母はそれを全く感知できなかったらしいが、母にはその「何か」を見ることはできなかったけど、感知することはできたらしい。母は毎日俺を守ることで一日を送っていたそうだ。そして、母はその「何か」から俺を守ろうとして亡くなったらしい。俺が一歳の誕生日を迎えた日だった。
 大切な一人娘を失ってしまった祖父母は、孫である俺を遠ざけるようになってしまった。母によく似た面差の俺を見ると辛くなり、俺を愛すことができなくなってしまった。幼いながらも俺はそれをはっきりと感じていた。
 二人は孫である俺を愛せないことに罪悪感を抱いて、結局俺を施設に入れることにして、自分たちの家から俺を切り離すことにした。「施設に入れる」と言うと、はっきりとはわからないかもしれないけど、それは実質的には縁を切られたのと同じことだった。祖父母は俺を、遠く離れた施設に入れると、それきり一度も俺に会いに来ることはなかった。
 体裁上、俺はずっと母の姓を名乗ってはいたけれど、祖父母はそれを望んでいないことを幼い俺は感じ取った。彼らにとって俺は孫である前に、彼らの大切な一人娘を奪った人間だったのだから。そのときから、俺はただの「響」になった。四歳のときの話だ。
 俺は施設に入ってから「何か」を惹きつけるだけじゃなくて、それが見えて、絡まれたり厄介事に巻き込まれたりする存在であることにも気付いた。
 施設に入ってから俺は、毎日無難に過ごそうと努力した。自分の意思とは関係なかったとしても、俺が惹きつけたものに母を巻き込んでしまったことを、ずっと引きずっていたんだろう。他の人には見えないものが見えたり、それに絡まれたり、そういうことはやっぱり避けられなかったけど、なんとか他の人と同じフリをして普通を装うことで、誰かを巻き込んで、その人の命を危険に脅かすようなことは避けることができた。
 施設に入ってから一年が経った五歳のときに、俺は波多野家に養子として迎えられた。子どもができなかった波多野の両親は、俺を施設で見かけて一目で養子に迎えることを決めたそうだ。
 波多野の両親は、俺を初めて見たときのこと、俺を養子に迎えてからの日々のこと、そしてこれからの三人の日々のことを語るとき、本当に愛おしそうなものを自慢するような、大切そうな表情をする。俺はそれを見て、心からの安らぎと感謝と、波多野の両親への確かな愛を感じる。それと同時に、絶対にこの人たちを自分が惹きつけるものたちから守りたい、と強く感じる。血は繋がっていなくても心は繋がっている「家族」だから、なんとしても守りたい、と。

 

「ただいま」
 玄関に入ってそう声をかける。すると台所からパタパタとスリッパの音が聞こえてきて、母さんが優しい笑顔で出迎えてくれる。
「おかえり。ねえ、神野さんに伝えておいてくれた?」
「うん……一応は」
 俺がここ最近、神野の屋敷に頻繁に出入りして、夕飯まで御馳走になって帰ってくるので、母さんはそれを心苦しく思っているらしい。どうしても夕飯に神野を呼んで、日頃のお礼をしたいと、今日も神野の屋敷へ行く俺に伝えておいてくれと頼んでいたのだ。
「一応伝えたけど、多分遠慮するんじゃないかな。神野さんって人見知りっていうか、内弁慶だから。よろしく伝えてくださいって言われたよ」
 実際は「お前といるだけでも私は少し疲れる。他人と関わるのはあまり得意ではないんだ。というか、嫌いなんだ」とぽつりと言っただけだったけど。やっぱりそのまま母さんに伝えるのは忍びないので、俺はかなり言葉を補うという名の改ざんを行ってこう伝えた。
「そう……。でも、本当にいつでも神野さんなら大歓迎よ。そう伝えておいてね」
 と母さんは残念そうに言った。
「うん。そう伝えとく」
 今度会ったときにでも神野に伝えておこう、母さんの気持ちだし、と思いながらそう答えた。
「そうだ、響。お父さんがね、ケーキ買ってきてくれてるわよ。ケーキなら食べられるでしょう?」
 母さんはすぐに優しい笑顔に戻って俺にこう言った。
「うん、食べる。チョコケーキはある?」
 チョコケーキ好きな俺はすぐにそう答えた。デザートは別腹とはよく言ったもので、どれだけお腹が一杯になっていてもデザートならお腹にすんなり入るものだ。俺は甘党で、どんなに夕飯を食べた後でも甘いものなら何でも食べてしまうので、そんな俺のことを神野は人間じゃないものを見るような、解せないといった目で見る。
「もちろん、響のために買ってきたんだもの。チョコケーキにショートケーキにチーズケーキに、タルトもたくさん」
 母さんは楽しそうにそう言うと、台所へケーキを取りに戻って行った。その後について俺は居間へ入ると、いつものように新聞を読みながら、父さんがソファにゆったりと座っていた。
「おかえり、響。ケーキ買ってきたよ。チョコケーキ」
 父さんは俺の顔を見るなり、新聞をしまってそう言った。
「ただいま。さっき母さんに聞いたよ。ありがとう」
 父さんの隣に腰を下ろしながらそう言うと、父さんは笑顔でこう言った。
「いや、僕はこうして響と瑠璃にお土産を買って帰ることができて幸せだからね」
 そういうと、父さんは優しい笑顔で俺を見て、ケーキを持ってきた母さんを見た。
「そうね。私もこうして司さんが買ってきたケーキを皆で食べられるのは幸せだわ」
 と母さんがそれに答えて言う。
 父さんと母さんはお互いを「瑠璃」「司さん」と名前で呼び合う仲良しな夫婦だ。それは今までもずっとそうで、きっとこれからもずっと変わらないだろう。
「手伝うよ」
 お茶を淹れるのを手伝おうと俺が手を出すと母さんはそれを静止して、
「だめよ、お茶は私が淹れるの。響はケーキをテーブルに並べてくれる?」
 お茶を淹れるのに何やら拘りがあるらしい母さんなので、俺は笑顔を浮かべてそれに素直に従った。
「瑠璃さん、僕は何をすれば良いかな」
 父さんも微笑ましそうに少し茶目っ気を出して母さんに聞く。
「司さんはフォークを並べてね」
 母さんは真剣にお茶を淹れながらそう答えた。そんな真剣な母さんを見て、父さんと俺は顔を合わせて笑った。
 これが俺の今の家族だ。ありふれたように見える幸せな家族。いつだったか、幸せな家族は皆一様だと誰かが言っていたのを聞いて、確かにそうかもしれないと思った。でもこんなに愛と幸せにあふれた家族はあるようでないと俺は思う。

 

 

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