だから言ったのに。
 僕が心の中でそう思った瞬間、ヤーコは数十メートル先で突然立ち止まった。その間にも僕とヤーコの距離は縮まっていく。
 ヤーコはもう一度走り出そうとして数歩踏み出したけど、結局また立ち止まって街路樹の傍に座り込んだ。
 僕はその様子を見つめて、ヤーコが座り込む傍に立ち止まった。
「だから言ったのに。準備運動しなよって」
 僕が声をかけると、ヤーコは僕が傍まで近付いていたことに気付いていなかったらしい。びくりとさせて僕を見上げた。
「なんだ、ヒナタか」
 ヤーコは僕をじっと見つめて言うと、慌てた様子で付け足す。
「だから言ったとは何の話だ? ワタシはだな、その――お前にハンデをやろうと思ってな。ここで数分待っててやる。先に行け」
 ヤーコはもっともらしく言っているつもりらしいけど、僕の目から見れば全然そんなことはなかった。僕は盛大にため息を零す。
「いいよ、そんな強がり。足痛いんでしょ? 見せてみなよ」
 しゃがみ込んでヤーコが庇っていた左足首にそっと触れる。
「いたっ――くはないぞ!」
 まだ言ってる。
「ちょっとごめん」
 僕はそう断ってから、ちょっとだけジャージを捲った。見てみると、どうやら捻挫したらしいヤーコの足首は腫れあがっていた。
「ちょっと、ヤーコ。君、一体いつ捻挫したわけ?」
「ネンザとはなんだ?」
 きょとんと僕を見つめるヤーコ。
「この状態だよ」
 僕はヤーコの劇的に腫れあがった足首を指差して答える。
「足を捻ったんでしょ? いつ?」
「えーっと……街路樹沿いを走り出してちょっと経ったくらいに足を捻ってな。それから違和感がある」
 違和感がある、で片づけられる問題じゃない。森林公園を抜けてからの道のりは、ここがマラソンの本番だと言っても過言ではないくらいの距離がある。マラソン行程のほとんどが、この街路樹沿いの道のりなのだ。この腫れ具合だと相当痛かったはずなのに、ヤーコは足を引きずりながらここまでの距離を走ってきたのだろうか。
「……バカじゃないの? 絶対、バカでしょ」
 なんだかよく分からない奇妙な気持ちが心の中で綯い交ぜになった僕は、そんな優しさの欠片もない言葉を掛けていた。
「足を怪我してる癖に、ここまで走るとか絶対バカ。この足首の状態はそのせいで悪化してるんだよ。なんで棄権しなかったの?」
「棄権はできない。試合放棄など、ワタシができるはずないだろう。そもそもこの勝負はワタシが無理に押し切ったものなのに」
 ヤーコはぼそぼそと呟く。僕はそんなヤーコの顔を覗き込んで、小さく嘆息する。
 ヤーコにも無理やり押し切った勝負だという自覚はあったらしい。その上、それがネックで棄権できなかったとは、考えてもみなかった。
「捻挫、痛くないの?」
「い、痛くなんてないぞ! ワタシは強いからな」
「強いとかそういうのは問題じゃないんだよ。強くても痛いものは痛いんだから。で、痛いの? 痛くないの? どっち」
 呆れて僕が言うと、ヤーコは一瞬だけ言葉に詰まった様子をみせた。ヤーコはそのまま数秒押し黙ると、やがて口を開いた。
「……たい……」
 口籠る感じでヤーコが言うので、上手く聞き取れない。
「え? ごめん、聞こえない」
「だから、痛いと言ったのだ! 悪いか!」
 逆ギレかよ……。まったく、人がちょっと優しい気持ちになったっていうのに、それがこの仕打ちとは。
「悪くないよ。悪くないけど、なんで怒ってんの?」
「ヒナタが二度も同じことを言わせるからだ!」
「それはヤーコの声が小さすぎて聞き取れなかったのが原因でしょ。一度目から大きな声で言ってくれてたら一度で聞き取れたよ」
「人間の耳の性能が悪いのだ!」
「人の耳を性能∴オいするの、やめてよね」
「こういうときでもヒナタは、ああ言えばこう言うなのだな」
「その台詞ヒナタ≠フ部分だけヤーコ≠ノ変えて、その他は一言一句違えずヤーコに返すよ」
 僕は言ってからもう一度、捻挫したヤーコの足首を見下ろす。これは病院に行かなくちゃいけないかもしれない。でもヤーコの場合、保険証がないから治療費が嵩んでしまう。一体いくら受診料を取られるのだろう。考えただけで気が重くなった。
「とにかく、帰ろう」
「……でもまだ勝負が終わってない。ヒナタもワタシもゴールしていないぞ」
「ゴールって――あのさぁ。ヤーコは怪我してるんだよ? ゴールどころじゃないでしょ」
「だが、どちらかがゴールしない限り勝負は終わらないぞ」
 ヤーコは自分が怪我をしているにもかかわらず引かない。どうしたものかと考えていると、ヤーコがぼそりと零した。
「だから、お前がゴールすればいいだろう。それでお前の勝ちだ」

 

 

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