森林公園の二周目が終わる。僕はペースの乱れがないまま森林公園を走り抜けると、その先に待ちうける街路樹に沿って走り出す。
 やっと変わった景色に少しだけほっとする。
 この辺りは閑静な住宅街だ。森林公園と違って、ここをジョギングコースに選ぶ人はあまりいないらしい。さっきまで自分と同じように走る人がいた森林公園と空気は一変して、しんと静まり返る中、僕の規則的な足音が響いた。
 意識して前方に目を向ける。けどやっぱりヤーコの背中は捉えられない。まったく、一体どれほどのスピードを出して走っているのだろう。でも、折り返してきたヤーコの姿もまだ見えないし、森林公園でも追い抜かれなかったことを考えれば、それほど早いスピードでもないのかもしれない。
「でもあのスピードならそろそろすれ違ってもよさそうなのにな」
 僕は再び呟く。
 走り続けながら、周りに注意を張り巡らせるけど、ヤーコはまったく見えない。もしかして、あまりにも張り切り過ぎてバテているとか? スタート時の猛ダッシュが響いて、今頃ガタガタになっているとか? どれも有り得そうで、どれも有り得なさそうだった。
 でもこのままいけば、僕は間違いなくヤーコの無計画な計画に付き合わなくてはならない。それは確実だった。
「やだな……」
 僕は思わず口に出しながら走り続ける。
 あまり呼吸も乱れていないし、ペース配分も順調だ。まだラストスパートをかけるには早すぎるけど、少しペースを上げてもいいかもしれない。とにかく、少しでもヤーコの姿を視認しなければ話は始まらない。
 それに考えてみれば、マラソンのペース配分なんて今の僕にはどうでもいいことだった。今回の目的は、マラソン大会の練習でも、マラソンを人生に置いて最良のペース配分で走ることでも、無事に完走してゴールすることでもない。眠気に負けてヤーコと交わした約束のためだ。僕は必ず今回の勝負で勝たないとバカげた妨害行動を死ぬ気でやらないといけない羽目になるのだ。
 それは避けたい。本当に、明け方4時に眠って朝6時に起きることを強制させられるのを避けたいぐらいに、避けたい。
 僕はそう思い立つや否や、ずっと保ってきた順調なペースを崩してスピードを上げる。さすがにダッシュはかけられない。ここでダッシュしてしまえば森林公園の最後の一周でバテて動けなくなってしまうことは、まず間違いない。だから僕は、最後まで走り切れる程度にまでスピードを上げる。
 さっきまでゆっくりと視界の端を過ぎていっていた景色が、今は次々とコマが切り替わるように過ぎていく。少し上がった呼吸が、ペース配分の乱れを告げていた。
 でもそれに気を留めている余裕はない。こんな風に頑張るなんて僕の柄じゃないけど、でも誰だって自分が可愛いのだ。今後、ヤーコのために人生を送る自分なんて、絶対に嫌だ。人間征服でも地球征服でも、僕と関係ないところでやって欲しい話だった。
 ペースを上げたおかげで、最初に頭で考えていた時間よりも随分早く、街路樹沿いの道のりをこなしている。でも、まだヤーコの姿は見えない。僕は、それまで真っ直ぐ前を見据えていた視線を地面に落した。
 あぁ、このままだったら本当に妨害しなくちゃならなくなる。そんな最悪な人生は過ごしたくない。でももしかしたら、ヤーコはとっくに折り返していて、今にも僕とすれ違って、そのまま先にゴールして、いつもの不遜な態度で僕を見下ろすのかもしれない。実のところ、それをされるのが一番癪に障るのだ。
 ヤーコはもう折り返したのかも、という考えが頭にちらついた瞬間に、少しずつ自分の中に諦めムードが漂ってくるのが分かった。そして妨害行動をするのも仕方がない、というさっきまでの頑張りが嘘のような思いまで生まれてくる。だって、ここまで距離を離されていたらどうにもならない。
 ペースを落とそうか、とぼんやり考えながら走る。ふと目線を上げて前を向くと、視線の先にヤーコと折り返し地点が小さく見えた。
 やっとだ。やっとヤーコの背中を捉えられた。もしかしたら、このままのペースを続ければ、もっと距離を縮められるかもしれない。
 ついさっきまで諦めモードだった自分の心に、小さな希望が芽生える。
 ペースを崩したせいで、少し足に疲れがきている。でも、やっとのことでヤーコを見つけられたのだ。諦めるわけにはいかない。僕は早いと分かっていたけど、ラストスパートをかけることにした。
 ああ、こんなことでこんなに必死になってるなんて、自分自身が信じられない。でも、たまにはこういうこともいいのかもしれない。マラソンで思考がおかしくなったのか、若干自分に酔ってるような気すらしてきた。きっとあとで冷静になって思い返したら、火を噴くほどに恥ずかしい――いや、蔑んだ目で今の自分を冷やかに見つめたいぐらいになるだろう。
 前を走るヤーコをじっと見据えて走る。どんどんヤーコとの距離は縮んでいく。最初はそれをおかしいとは思わなかったけど、順調に縮まっていく僕とヤーコの距離に、やがて僕は訝しく思いだした。
 ヤーコはハイペースで走っていたはずで、今まで彼女の姿はずっと見えなかったのに、ここにきて姿が見えるようになったなんておかしくないだろうか? しかも、着々と距離は縮まっていく。ハイスピードすぎてバテた、ということも考えられなくはないけど……。
 今や数百メートルの距離にまで縮んだヤーコの後姿を見つめる。もしかしたら油断してペースを落としているとか? でもヤーコならそんなことせずに、全力で勝ちにいきそうだった。
 じっとヤーコの背中を見つめていると、遠くからでは気がつかなかった不規則な上下運動に気付く。スタート時には颯爽と、軽快に走り去っていったヤーコの背中をはっきりと覚えていた僕は、違和感を覚えずにはいられなかった。
 ヤーコとの距離はもう100mを切っている。ずっと背中に当てていた視線をずらして、ヤーコの足元に落としてみる。するとなるほど、彼女は左足を若干庇い気味に走っていた。

 

 

back  僕とヤーコの攻防戦トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system