4. 第一戦


 天気、快晴。風、追い風が少し。空気、湿気は季節的にもちろんない。気温、夕方になって少し肌寒い。体調、良好。
 僕はジャージを着て(もちろん学校指定のものではない)、ヤーコもジャージを着ている。どうやら今日、母さんに買ってもらったらしい。
 ヤーコは僕の隣でうずうずした様子で、僕を熱心に見上げていた。
「じゃあ、最後にもう一度確認ね」
「おう!」
 ヤーコは僕の言葉に張り切って返す。その姿は不覚にも可愛らしく見えた。
「学校の校庭は部活で使えないから、代わりに森林公園を二周したあと、街路樹に沿って走って折り返し、最後に森林公園を二周して50m先にあるあの――」
 僕はそこで、すぐそこに見えるアイス屋を指差した。
「アイス屋がゴール」
「分かっているぞ、ヒナタ」
「この勝負にヤーコが勝てば、僕はこれからヤーコの人間征服計画に対する妨害を死ぬ気でする。でも僕がこの勝負に勝てば、ヤーコは勝手に一人で征服計画を実行する」
「そのとおりだ、ヒナタ」
 ヤーコは大きく頷いてから、はっとした様子で付け足した。
「だがワタシは、この勝負に負けてもマツノモリ家に居座り続けるぞ。それは変わらないからな」
「はいはい。もうその点については諦めがついたよ」
 今日、学校から帰ってきた僕を待っていたのは、ヤーコの編入手続き完了の書類と、上履き、運動靴、体操着と教科書一式だった。選択科目は音楽にしたらしい。残念なことに、僕も音楽選択だった。ヤーコは次の月曜日に編入してくるらしい。そして制服は仕立てが三日後に完成するらしいので、後日改めて受け取りに行くらしい。ヤーコの制服がまだなくて残念がったのは青葉だった。
 すっかり松ノ杜家に馴染んでいるヤーコ。青葉はもちろん、父さんも母さんもヤーコを好いているようだった。これがすべて暗示のパワーなのだとしたら、相当強力だ。
「ヒナタ、早く始めよう」
 ヤーコはぐいぐいと僕のジャージを引っ張る。僕はその手を外しながら言った。
「その前に10kmも走るんだから準備運動とかしなくちゃ。特にヤーコ、最近長距離走ったことある? 突然走ると怪我するよ」
「ワタシは大丈夫だ。怪我などしない」
「そういうこと言うヤツに限って怪我したりするんだよ」
「しつこいなぁ。ワタシは怪我なんてしない。準備運動なんてしたいヤツだけすればいいんだ。さっさと始めるぞ。ワタシはもう走り出すからな!」
 ヤーコは一方的にそう言うと、その場で身構えた。
「よーい、どん!」
 勝手にスタートの合図を声高に告げたヤーコは、本当に走り出してしまった。僕は猛ダッシュして走り去っていくヤーコの背中を見つめて呆れてしまった。
 ヤーコはマラソンが長距離だっていうことを、本当に分かっているんだろうか? というかそもそも「10km」というのがどのくらいの距離なのか理解しているのかも怪しい。まあ、それはちゃんと説明しなかった僕の落ち度かもしれないけど、詳しく聞いてこなかったヤーコも悪いだろう。
 あんなに序盤から全力疾走していたら、普通の人間は10kmもたない。ヤーコは地球外生命体だから、もしかしたら10kmなんて朝飯前かもしれないし、準備運動なしで全力疾走しても十分走り切れる距離なのかもしれない。でも僕は生憎と人間で、マラソン前に準備運動せずに走れば身体に変調をきたすかも知れないし、最初から全力疾走なんてしたら完全に10kmもたないことは目に見えている。
 だから僕は、走り去って行くヤーコを見つめながら準備運動を開始した。もしかしたらこの勝負、本当に負けてしまって、これからの僕の人生が最悪なシナリオを辿っていくかもしれないと覚悟しながら。
 屈伸運動。アキレス腱を伸ばす運動。前屈、後屈、側屈運動。最後に手足を伸ばして軽くジャンプする。
 そして僕は、もう既にヤーコの姿が見えなくなった前方を見据えてスタートした。
 世界が軽く上下する。森林公園という名前だけあって、自然が豊かで空気が澄んだその中を、僕は胸式呼吸を意識して走る。
 ヤーコはよっぽどスピードを出して走っているらしい。僕も意識して少し早目のペースで走ってはいるけど、まったくヤーコの姿は見えない。もしもヤーコが人間と同じようにバテたりする性質を持っているのなら、5kmと持たずにペースが落ちるはずだ。
「それにスタートしたときのスピードも、飛び抜けて早いってこともなかったし……」
 一定のテンポを保って走りながら、ぽつりと僕は独り言ちた。
 ヤーコのスピードは一般的な高校生女子くらいだろう。もしかしたら、あれでスローペースという可能性も捨てきれないけれど。
 勝負内容がマラソンに決まったとき、僕は一瞬だけ思ったのだ。もしも、ヤーコの走るスピードが光の速さぐらいだったらどうしよう、と。そう考えてしまった僕の頭も仕方ないと思う。だってヤーコは地球外生命体で、僕にとって未知の生き物なのだから。
 森林公園を一周し終わる。二周目に差し掛かっても、やっぱりヤーコの背中は見えなかった。でも僕は周回遅れではないらしい。何度か後ろを振り返って確認してみたけれど、ヤーコが走ってくる姿は見えなかったし、もちろんヤーコに追い抜かされるということもなかった。
 さっきと変わらない景色と空気の中、僕は一周目のペーを保ったまま走る。どうやらここは定番のジョギングコースらしい。運動部っぽい学生や、会社を終えてこれから走り出そうというところの会社員らしき人たちの姿がちらほら見えだした。
 今日の僕の調子はいいらしい。今のところ身体の疲れはないし、呼吸が変に乱れたりもしていない。ペースも順調。これが学校開催のマラソン大会なら、上位入賞も可能なくらいの走りっぷりだ。まあ、あくまで自分で考えていることだから、大して当てにはならないけど。

 

 

back  僕とヤーコの攻防戦トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system