「あ、お兄ちゃん。お帰りなさい」
 青葉が屈託のない笑顔で言う。テレビに夢中になっていないときの青葉ほど可愛いものはなかった。
「ただいま。二人で楽しそうに何話してたの?」
 遠回しに聞いてもきっと僕が求める答えは出ないだろうと踏んで、敢えてストレートに聞いてみた。
「え? 別に大したことは話してないよー。今日学校であったことをヤーコちゃんに話してただけ」
 青葉はきょとんとして僕を見る。どうやら本当に他愛のない話をしていたらしかった。
「あら、日向。帰ってたの?」
 大きな洗濯籠を抱えた母さんがリビングに入ってきて、僕を見つけると言った。母さんはソファまでやってくると「よいしょ」と小さく言って洗濯籠を床に置く。それから中に入っている洗濯物を一つずつ取り出してたたみ出した。
「さっき帰ってきたところ」
 僕は洗濯籠の中から一番上にあったタオルを掴んで丁寧にたたむ。雑にたたむと青葉に怒られるのだ。
「そうだわ。明日ね、高校に行ってヤーコちゃんの転入に必要な書類を提出してくるわ。そのあとヤーコちゃんの制服を買いに行くの。だから、もしかしたら青葉が帰ってくる時間に、お母さんは留守かもしれないわ」
 母さんは洗濯物をたたむ手を止めずに、顔だけを上げて青葉を見つめた。
「だから明日は鍵を持って学校に行ってくれる? なるべく青葉が帰ってくる頃までには家にいたいんだけど……万が一もあるし」
「ヤーコちゃんもお兄ちゃんの高校に通うの? じゃあ、女の子の制服だ! いいなぁ、女子高生」
 青葉はうっとりと呟く。
「青葉も早く高校生になりたいなぁ。ヤーコちゃんがうらやましい」
 青葉は羨望の眼差しでヤーコを見つめる。そんな青葉を見て僕は苦笑を浮かべた。
 青葉が高校生になる頃には、僕はもう22歳だ。22歳といえば、高卒なら社会人4年目で、大学生なら4回生。その6年後の未来に、家のリビングで当然のようにくつろいでいるヤーコはいるんだろうか。もしその年までヤーコの人間征服を妨害する勝負≠ェ続いていたら……。
 僕は自分で考えておきながらぞっとしてしまった。
「どうした? ヒナタ」
 暗く落ち込んでいた僕の耳に、ヤーコの鈴のような声が届く。どれほど可愛い声でも今は一番聞きたくない声だった。
「別に。ところで、ヤーコの編入はいつからなの?」
「そうねぇ。書類の手続きが済んで、制服も仕立ててもらってからでしょうから……一週間後くらいかしら」
「一週間後!? ワタシはそんなに待たねばならんのか?」
「詳しいことは私にも分からないんだけどね。とにかく明日、高校に行ったら分かるんじゃないかしら」
 我が母ながらわりといい加減だった。でも、この場合はこうとしか言いようがないのも事実だ。
「そうか……一週間……」
 ヤーコはショックだったのか、そう呟くとがっくりと肩を落とす。何がそんなに悲しいのか僕にはまったく分からなかったけど、青葉には分かるらしい。青葉は神妙な顔つきで、ヤーコの肩を励ますようにぽんぽんと叩いた。
「ヤーコちゃん。一週間なんてすぐだよ」
「そうか? ……そうだな。一週間なんてすぐだな!」
 立ち直りの早いヤーコだった。
 人間を征服する、なんて物騒なことを言うヤツがこんなに単純でいいのだろうか。他人事ながら心配してしまう。
「よし。話もまとまったところでワタシはヒナタに話があるんだが。内密な話だ」
 何の話がまとまったのかは、この際聞かないことにしよう。
 僕は順調に洗濯物をたたんでいた手を止めて、頷いた。
「何?」
「内密な話だと言っただろう。ここではなく、お前の部屋かアオバの部屋で」
「何で青葉の部屋がここで出てくるの?」
「ワタシが寝泊りをしているのはアオバの部屋だからな。今、この状況では半分ワタシの部屋だ」
 何という理論。何という思考回路。乱暴にも程がある。それでも青葉は別段訂正を入れるつもりはないらしい。部屋の主である青葉が嫌だと思っていないのなら僕が口を出す問題でもない。
 僕は仕方なく頷いてソファから立ち上がった。
「えー。お兄ちゃんもヤーコちゃんも行っちゃうの? 青葉も混ぜてくれないの?」
 不満そうに青葉が頬を膨らませる。その仕草がいくら可愛くても「征服」だとか「妨害」だとかそんな物騒な単語が出てくるだろう話し合いに参加させることはできない。
「青葉はまた今度ね。ほら、青葉も洗濯物たたむの手伝って」
「えー。面倒くさいなぁ……」
 青葉はぶつぶつ文句を言いながらも、洗濯籠に手を突っ込んで中からシャツを引っ張り出した。
 僕はそれを微笑ましい気持ちで見つめてから、ヤーコに視線を送ってリビングから出て行く。ヤーコは僕の後ろにちょこちょことついてきた。
「さて、どこで話をする?」
「青葉の部屋に勝手に入るのは気が引けるし――」
「だから言っただろう。アオバの部屋はワタシの部屋だ」
「じゃあ、僕の部屋で」
 取りあえずヤーコの言うことは無視する。それにこの際、話の内容が重要なのであって、話をする場所はどこでもいい。それなら青葉の部屋でも僕の部屋でもどこでも同じだった。

 

 

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