ヤーコ。
 声にならない声を出して、彼女に言う。多分今、僕の顔は結構すごいことになっていると思う。ヤーコは視力がいいのか、それとも自分が大声を出したことに満足したのか、とにかくにこにこと上機嫌で笑いながら両手を振っている。
 まさか本当に今日やってくるなんて。しかもこんな授業中に大声を出して名前を呼ぶなんて。迷惑極まりない。
「ヒナター! 着たぞ! ワタシはどこへ行けばいいんだ?」
 無視したい。知らない振りをしたい。他人の振りをしたい。
 だけどここで無視したりすれば、さらに酷い状態に陥るのは目に見えている。火を見るよりも明らか、というやつだ。
 僕は気を落ち着かせてから、立ち上がった。
「――ん? どうした、松ノ杜」
 それまで単調に解説していた先生は、ペースを乱されたと言わんばかりに、僕が立ち上がったことに少し眉根を寄せた。
「体調不良なので保健室に行きます」
「え? そうか。じゃあ、保健委員――」
「大丈夫です。一人で行けますから」
 僕は手短に言うと、教室を横切る。一瞬だけ僕に集まった注目はすぐに解かれて、またみんな教科書に目を落としたり、こっそり読んでいる本に目を落としたりする。
 僕は後ろ手でドアを閉めて廊下に立つと、一目散に駆けだした。少しだけだけど、ヤーコの声がここにまで届いている。これ以上叫ばれたりしたら迷惑だ。しかも、僕の名前まで一緒に叫んでくれているのだから、さらに性質が悪い。
 本当に、これ以上叫ばないで欲しい。切実に。
 僕は心の中で願いながら走り抜ける。一気に階段を駆け下りて、正面入り口から上履きのまま飛び出した。ヤーコは相変わらず上を見上げて僕の名前を呼んでいた。
「ヒナター! ワタシを無視する気なのか?」
 ヤーコはぴょんぴょん飛び跳ねながら、勢いよく両手を振る。僕はため息を吐いてから、ヤーコめがけて突進した。
「それ以上大声で僕の名前を呼んだら、本気でここから放り出すよ」
 ヤーコの背後で低い声を出す。大声を出すことに夢中になっていたらしいヤーコは、真後ろで僕の声が聞こえたことに驚いたのだろう。びくりと身体を震わせて、そろそろと僕を振り返った。
「ひ、ヒナタ……」
「ほんとに君って迷惑だよね……」
「いや、だってお前の姿がいきなり見えなくなったから! ワタシを無視したのかと」
「へぇ、僕のせいなんだ」
「いやいや。そういうことではなくてだな――ってどうしてワタシがお前の機嫌を取らねばならんのだ!」
 下手に出ていたヤーコは自分で気がついたのか、突然不快そうに怒鳴った。その声のあまりの大きさに、いくつかの窓からちらほらと顔が覗いたくらいだった。
 ここで注目されたらたまらない。何のためにここまで走ってきたのか、訳が分からなくなるではないか。
「とにかくヤーコ。ここは目立つから」
「目立って何が悪い」
 ふんと威張り腐ってヤーコが言う。
 ああ、神様。いるのだとしたら、今すぐこのヤーコという地球外生命体を黙らせてください。
「……来るの、来ないの。どっち」
 氷点下150度の視線を注いだら、ヤーコは突然小さくなって、
「行きます」
 小声で言った。
 どうやらこう言ってしまったこと自体もヤーコにとっては腹立たしいことらしい。さらに小声でぶつぶつと「なぜこのワタシがヒナタの命令に従っているのだ……」という文句が耳に届いてきた。
 文句を言う割には素直に、ヤーコは僕の後ろをついてくる。僕はそれを確認してから、事務室へ直行した。編入手続きをするのなら、教室や職員室に向かうよりも先に事務室に通すべきだろう。僕も編入なんてしたことはないから、詳しいことは分からないけど。後はどうとでもヤーコがすべき問題だし。
「ヒナタぁ。どこに向かっているのだ?」
「事務室」
「どうして?」
「ヤーコは編入手続きに来たんでしょ? だったらまず事務室じゃないの? 知らないけど」
「知らないのに連れていく気か?」
「あのままヤーコを放置してるよりはマシでしょ。手伝ってあげてるんだから」
 僕は振り返らずに廊下を歩く。それが気に入らないのか、ヤーコは僕の周りをうろちょろして、僕の腕を引っ張ったり揺すったりする。
「お前が手伝うなんてわけがあるか。ただ厄介払いしたいだけだろう」
「さすが高等生物。よく分かってるね」
「……褒められた気がしないのはなぜだろうな、ヒナタ」
 ヤーコはむっとして目を細めた。けれどいちいちそれに気を留めていられない。僕は黙々と、淡々と、事務室に向かって歩いていく。やがてヤーコも諦めたのか、大人しく僕の隣を歩きだした。
「まあ、ワタシの作戦は成功したわけだな」
 ヤーコは満足げに口元をだらしなく弛めながら言った。
「作戦って?」
「ヒナタの名前を大声で呼び続ければ、きっとヒナタが出てくるだろうと思ってな。もしかしたら通報されるかも知れないと針の先ほどは思ったが、お前がちゃんと出てきてくれて、作戦成功だ。めでたしめでたし」
「そうか。通報っていう手段もあったんだね」
 僕は古典的に手をぽんと叩く。「次からはそうしよう」と固く心に誓った瞬間だった。

 

 

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