「風呂、空いたぞー」
 ぺたぺたと裸足で歩きながらヤーコが言った。ヤーコは濡れたままの髪をタオルで乱暴に拭きながらソファまで歩いてくると、当たり前のように僕の隣にどさりと座った。他にも座れるスペースはあるというのに。
 僕はヤーコとの間に適当な距離を取るべく身体をずらす。
「お風呂、分かった?」
 がしがしと髪を拭くヤーコを見て僕は訊ねた。ヤーコは手を止めて僕を見ると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「勝手はちゃんと分かったぞ。なにせワタシは高等生物だか――」
「そう言えばヤーコちゃん。ちゃんとお風呂、分かったの?」
 ヤーコがソファに座っていることに今になって気が付いたらしい青葉が、結果的にヤーコの台詞を遮った。
「青葉の説明だけで、分かってくれたならいいんだけど……」
 青葉はヤーコを不安そうに見つめながら、食べかけのオレンジをすべて口に入れた。ヤーコはそんな青葉を見つめて万事休すといった顔をした。
「な、何の事だかワタシにはさっぱりだぞ。アオバ」
 そんな顔をしながら言ったのでは、説得力に欠ける。
「え? ヤーコちゃんってば自分で言ったことも忘れちゃったの? お風呂の入り方が分からない場合に備えて――」
「あー! それ以上言うな! 皆まで言わずともよい!」
 ヤーコは慌てて青葉の言葉を遮る。先程までお風呂上がりでほかほかしていた顔は、今では血の気が引いて、青いというよりは真っ白な顔になっていた。
 僕はヤーコを横目で捉えながら、フォークをリンゴに突き刺した。
「ふぅん……」
 フォークを口に運ぶ。しゃりしゃりとした感触が再び口の中に広がった。
「大した高等生物だね」
 リンゴを噛み砕いて飲み込んだあと、僕はにこりと笑ってヤーコに言った。
 ヤーコは真っ白だった顔を今度は真っ赤に変えて、頬を膨らませる。
「ば、バカにしてるな!」
「別にバカにはしてないけど」
「『バカには』ということは、何か他のことではワタシを見下しているのだな!」
「別に見下したりしてないよ」
 馬乗りにならんばかりに迫ってくるヤーコに思わず仰け反る。そしてこれ以上近付かれないように、ヤーコの肩に手を置いて突っ張った。
「すぐに逆上するのやめてよ」
「逆上だと? 失礼な」
 僕はあくまで冷静に言う。それに触発されたのか、幾分か冷静さを取り戻してヤーコも言った。
「別にバカになんてしないよ。君はここ出身じゃないわけだしね。勝手が分からなくて普通でしょ」
「では、さっきの小馬鹿にしたような目と物言いは何だったのだ? あれは間違いなくワタシを見下していたぞ」
 僕の台詞にまだ納得していない様子のヤーコ。僕は仕方なくヤーコをソファに座らせてから(もうほとんど僕は押し倒されていた)、自分も居住まいを正してヤーコを見つめた。
「見下したわけでもないよ。ただ、からかって言っただけ」
 僕が軽く言うと、ヤーコは瞬時に深い皺を眉間に刻んだ。
「からかう?」
 ヤーコはまるで確かめるように僕の言葉を繰り返す。
「からかう、だと? このワタシを?」
「うん」
「『うん』ではないぞ! いくらお前がワタシのお気に入りだからと言って、何でも許されるわけではないぞ! そういうのは良くないんだぞ!」
「僕がヤーコのお気に入りになってたとは知らなかったよ」
「気に入っていなければ、お前にも同様に暗示をかけるはずだろう。バカだなぁ」
 バカにバカと言われた。
 このときの僕の心情は非常に複雑なものだった。
「お兄ちゃん、ヤーコちゃん。仲良くお喋りしてるところ悪いけど、二人の声でテレビが聞こえないよ」
 相変わらず酸っぱい顔をしながらオレンジを食べている青葉は、迷惑そうにヤーコと僕を見て言った。
「お喋りするなら自分の部屋へ行ってよ」
 青葉はすぐにテレビへ視線を移す。
「やだ」
 僕はすかさず言って、今度はフォークをオレンジに刺した。
 冗談じゃない。この時間にヤーコを部屋に連れていったなら、絶対に夜はベッドを占拠されるに決まってる。僕の部屋だというのに、部屋の主が冷たく痛い床で寝なくてはいけないなんて、絶対にごめんだ。……そう言えば考えてなかったけど、ヤーコは一体どこで寝るつもりだろう。
「ヤーコ。君ってどの部屋で寝るつもりなの? 家の客間は既に物置と化してるから泊まれないよ」
「ん? そうなのか。ではヒナタの部屋で――」
「却下」
 ベッドを占拠される云々だけではない。黒ネコの姿ならまだしも、ヤーコは今、16歳の女の子の姿なのだ。さすがに色々とダメだと思う。
「なぜだ? 別にワタシはお前を襲ったりしないぞ……いや、襲おうと思えば襲えるが」
「最後の台詞は聞かなかったことにするよ」
 命の危機と、男の危機。どちらの意味にも取れる言葉だ。
「母さん。ヤーコってどこに寝かすの? 部屋ないでしょ」
 ヤーコに訊ねても埒が明かないと判断した僕は、質問の矛先を母さんへ変えた。母さんは僕の問い掛けに難しそうな顔で首を捻った。
「そうねぇ……確かに部屋がないわね。どうしましょう」
 沸騰したてのお湯をマグカップに注ぎ込みながら、湯気の立ちこめる中、母さんはぼんやりと言った。
「セイコ。ワタシはヒナタの部屋に住まう――」
「だからそれは却下」
 僕はヤーコのとんでもない発言を遮る。肩に掛けたままになっているヤーコのタオルを、まだ濡れたままのヤーコに頭からすっぽり被せる。それからタオルを引き寄せてヤーコの顔にずいっと詰め寄って小声で囁いた。

 

 

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