「ワタシはお前が気に入ったぞ。アオバには重ねて感謝しなくてはな」
 ヤーコは言うと、反動をつけて起きあがる。それから挑戦的に僕の瞳を覗き込むと、そっと僕の髪に触れた。
「花嫁修業というのも悪くはないな」
 僕は不愉快な気持ちでヤーコの細い指を払う。
「君がよくても僕は願い下げだってこと、お忘れなく」
 僕も暗示をかけられれば終わりだけど。
 暗い気持ちになる。本当にこのヤーコが人間を支配できるなんて思ってはいないけど、この家が厄介なことに巻き込まれるのは確実そうだ。
 僕は長くため息を吐き出す。なんだってこんな面倒なことに巻き込まれなくちゃいけないのだろう。
「お前、名前は?」
 ヤーコはさらに顔を近付けて覗き込むようにした。
「僕に暗示をかけてから改めて聞けば?」
 せめてもの抵抗にそう答える。
 ヤーコはさらに笑みを大きくすると、僕から身を引いた。
「ワタシはお前には暗示をかけるつもりはない。だからお前の意思で名を教えてもらいたい」
「何それ。僕の意思で名前を聞かなくちゃいけない理由でもあるの?」
 例えば、よく小説とかに出てくる「真名」という類。本当の名前を知られると、相手に思いどおりに操られたり、とか。僕はそういう現実に有り得ないSF的展開とか、ファンタジーなんてまったく信じてない。普段なら何のためらいもなく自分の名前を言うけど(この場合、詐欺師相手とかいう特殊状況はもちろん除く)、相手は地球外生命体だ。こういう訳の分からない展開に持ち込まれる可能性も危惧しなくてはいけない。
 本当ならヤーコを地球外生命体とも認めたくはないというのが僕のポリシーだ。けれど、目の前で黒ネコが喋り、挙句の果てには人間の女の子の姿になられれば、嫌でも認めざるをえないという辛いところだ。
「バカだなぁ。ワタシは暗示の能力はあるが、名前を知ったぐらいで人を操ったりは生憎とできないぞ」
 ヤーコはまるで僕の思考を読んだかのように、呆れた顔で言う。
「ちなみに、思考を読む力もないからな。お前の顔を見ていれば、何を考えていそうかぐらい誰の目にも明らかだぞ」
 また思考を呼んだように言うヤーコ。
 でも確かに、ヤーコの言うとおりなのかもしれない。僕はよく、心と顔が直結していると言われる。感情がそのまま表情に出易い人間なのだ。僕自身はその評価に対して、頭と口が直結しているよりはマシだという結論を出している。
松ノ杜(マツノモリ)日向(ヒナタ)
 僕は早口で自分の名前を言う。
 ヤーコは聞き取れなかったのか、耳に手を当てて小首を傾げた。
「ナンノモリヒナタ?」
「ほとんど聞き取れてるじゃん。マツノモリヒナタだよ」
 呆れを通り超えると無になる。僕は口を動かす以外、顔のパーツを何も動かさずに言った。
 ヤーコは僕の最初の台詞はあえて聞き逃したのか、神妙な顔つきで頷く。
「ほう。随分と長い名前だな。呼び辛い。こういう場合、何と呼べばいいのだ? 省略してもいいものか? マツノモリヒナタ」
「いや、全部が名前じゃないから」
「ん? ワタシは名を訊いたつもりだったが」
「松ノ杜は名字なんだよ。日向が名前」
「ミョウジ……とは何だ」
 堂々と胸を張ってそんな質問をされて、僕は言葉に詰まってしまった。今まで「名字って何?」という質問なんてされたことはなかったし、ましてやその答えなんて僕は知らない。
 名字は名字だ。それ以外に何て答えればいい?
 僕は頭を捻った挙句、床に落ちたままになっていた鞄を手繰り寄せて、その中から電子手帳を引っ張り出した。
 電子手帳を開いて、辞典を表示する。MYOUJIと打ち込んで、出てきた説明に軽く目を通してから、改めてヤーコを見つめた。
「名字っていうのは、家に代々伝わる名前のこと。僕の家に伝わる名前は松ノ杜。だから、この家の人間は全員、松ノ杜なんだよ」
「ふぅん」
 ヤーコは言ってから、何か重大なことにでも気付いたように目を見開くと、真剣な顔をしてずいっと身を乗り出した。
「では全員マツノモリ≠ネらどうやって呼び分けるのだ? マツノモリと呼べば、全員が振り向くわけだろう」
「だから名前があるんだよ」
 僕は心底呆れて言った。
「僕の家族はみんな松ノ杜だけど、それぞれ自分の名前がある。たとえば、ほら。ヤーコを拾ったのは僕の妹で、名前は青葉。名字は松ノ杜だから、松ノ杜青葉。僕の名前は日向で、名字が松ノ杜だから、松ノ杜日向になるんだよ」
 そう説明したものの、いまいち上手く伝わっているのか分からない。何せ、名字の説明をすることも初めてだし、名字を知らないという生命体に出会ったこと自体が初めてだったのだから、少しは大目に見てもらいたいところだ。
 案の定、ヤーコは難しい顔をして首を捻っている。僕はそれを見て付け加えた。
「じゃあ、簡単に考えて。松ノ杜は名字、それはもう頭の片隅に置いておけばいいよ。重要なのは名前の方だし。君は僕を日向って認識すればいい。僕の妹を青葉って認識してるのと同じように」
 ヤーコはやっと合点がいったように、嬉しそうに両手をぱちんと叩いた。
「それなら簡単だ。ではワタシはお前をヒナタと呼べばいいということだな?」
「ま、そうなるね」
 不本意だけど、名字を知らないのならそれしか方法はない。親しくない人――この場合は生命体だけど――に名前を呼ばれるのは抵抗があるけど、そう言ってもいられないんだし。
「ヤーコは名字的な何かはないの? 家族と同じ名前を共有してる、みたいな」
 何の気なしに僕が訊く。するとヤーコはこれまで以上に難しそうな顔をして考え込んでしまった。

 

 

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