1. 前哨戦


「この家の人間の思考は、ワタシが支配した。ワタシはここに居座り、人間どもを征服するぞ」
 どさり、と音がする。何事かと思えば、なんてことはない。僕が手に持っていた鞄が床に落下しただけだった。
 無理もないと思う。今、僕の目の前で可愛らしい容姿の黒ネコが、流暢に喋ったと思えば、その発言内容が常軌を逸していたのだから。
「……はぁ?」
 数秒の沈黙の後、僕の口から出たのはそんな言葉だった。
「理解力のないヤツだなぁ。つまり、ワタシはここが気に入った。出て行かないからな、覚悟しろ」
 ふふん、とでも音をつければいいのだろうか。黒ネコは不敵に笑むと、僕を見上げる。
 そうか。これは夢だな。第一に、ネコが喋るはずがない。そんなのは昔に大流行した美少女戦隊ものに出てくる、喋る黒ネコぐらいだ。つまり、架空の話の中の話。
「疲れてんのかな……」
 僕は額に手を当てて、黒ネコが陣取るベッドに腰を下ろした。
「だからぁ、聞いてるのか? ワタシはここに居座るんだからな。覚悟し――」
「幻聴まで聞こえるなんて、相当きてるな。僕」
「幻聴ではなーい! 目の前の現実を受け入れよ!」
「寝不足なのかもしれないな。少し眠るか」
「寝るな! お前が眠ったあと、ワタシはどうすればよいのだ?」
 ごろりとベッドに寝転がる。すかさず黒ネコが、ぱしぱしと僕の頬を柔らかなにくきゅうで押す。極力無視しようと努力する僕の思考に入り込んでくる黒ネコ。僕は目を閉じたまま頬を引き攣らせた。
 このまま見ざる聞かざるを通すか、それとも諦めて話をすべきか。二つに一つ。後の選択肢は選びたくない。となれば一つ。
 僕は眠ることにする。
 けれど黒ネコは僕を寝かそうとしない。柔らかい独特の感触のにくきゅうは、痛いというよりも気持ちがいい。けれど、さすがに何度もにくきゅうを頬に押し付けられていると、だんだんその気持ちよさも不快になってくる。その感覚すら無視しようと僕は努力を続けたけど、結局耐え切れなくなって起きあがった。
「もう! 何なんだよ」
「よし、起きたな? では聞け。ワタシはこの家を支配したのだ。従ってお前も速やかに我が軍門に降るべし」
 僕の目には、黒ネコが威張り腐って腕組みでもしているように見えた。
 ああ、どうしよう。僕はこんなにも頭がおかしくなってしまった。そりゃ最近は人間関係に疲れることもあったし、テストやらなんやらで忙しくもしていたけど、まさか、頭が変になるなんて。
 頭を抱えて低く唸る。その間にも黒ネコは流暢に話し続けた。
「その様子を見ると、ワタシの偉大さに平伏したのだな! よしよし。なかなか利口ではないか」
 俯いているから黒ネコの表情までは分からないけど、どうやらかなり満足気だと思われる。
 とにかく、頭がおかしくなってしまったなら、なってしまったなりに何か行動を起こそう。そうだ。これが夢だという可能性もまだなくなったわけではないし。
 自棄になった僕の頭にひらめいたのは、そんな言葉だった。
「質問」
「うむ。発言を許す」
 軽く手を上げた僕を、前足で指名した黒ネコ。傍から見れば、何と滑稽な光景だろう。
「何でこの家? 他にも適当な家はあるでしょ。よりにもよって、何で僕の家なの?」
 頭がおかしくなったわりには結構的確に、ピンポイントに、疑問点をつくことができたように思う。
「よい質問だ。答えはだな、アオバが私を拾ったからだ」
 アオバ? 青葉のことか。
 青葉というのは僕の妹だ。高一の僕に小四の妹という、少し年の離れた兄妹である。いや、家族構成は今この場ではまったく関係ないことだけど。
「青葉が拾った?」
「そうだ。ヴァンパイアを知っているか? まぁワタシも詳しく知っているわけではないがな、あれは家の住人にドアを開けてもらわないと家の中へは入れないのだ。ワタシもあれと同じで、家の住人に家の中に連れて入って貰わないと、家の中に入ることができない。一度住人に入れてもらえれば、あとは自由に出入りできるがな。青葉はワタシを拾って中に入れてくれた。だからワタシはこの家に居座ることにした」
 当然のことのように言う黒ネコ。いつもは可愛くて仕方がない青葉が、このときばかりは憎らしく――いや、いじらしく感じた。やっぱりどんなときでも可愛い妹だ。
 と、そんなことはどうでもよくて、今は目の前の頭痛の原因となりそうなものを厄介払いする必要に駆られている。
「ふぅん。じゃ、また誰かに拾ってもらえば? 結構可愛い黒ネコなんだから、喜んで拾ってくれる人がいるよ。だからこの家から出て行こうね」
 僕はなるべく優しい声で黒ネコに言う。頭の片隅では「どうして僕が優しく言わなくちゃならないんだろう」という当然の疑問も湧いていたけど。
「うんうん、分かった……と話が運ぶとでも思っているのか!」
 ぽふっと僕の柔らかいベッドを前足で叩く黒ネコ。
「確かにワタシは可愛い。だからすぐに飼い主、もとい潜伏先は見つかるだろう。だが厄介なことがあるのだ」
 黒ネコは神妙そうに言うと、肩を落として――という表現が間違っていなければ――嘆息した。
「ワタシは一度誰かに拾われて家へ連れて入られると、他の家に潜伏することができなくなるのだ」
 なんて面倒で最悪な掟。
 このときばかりは、いつも可愛い妹の優しい行動を本気で恨んだ。
「従って、ワタシはこの家を拠点に人間どもを支配するぞ」
 ケースZZ発生。
 せいぜい日常で起こり得る範疇を想定したケースはAからDくらいまでで、ケースZともなれば、考えられる日常の出来事はまったくないものだと言える。つまり、どれにも当てはまらない非日常の出来事だ。それにもう一つZをプラスしたところで、僕が置かれた状況と気持ちが伝わるのではないだろうか。否、伝わって欲しい。切実に。

 

 

僕とヤーコの攻防戦トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system