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「今日も部活サボりね」
 背中を軽く押されて、そんな声をかけられた。首を少しだけ後ろに向けると、にやりと口元を弛めた美菜がいた。
「あれー? 今日って部活ある日だっけ?」
 恍けてこめかみに人差し指を当ててこれぞ「考えるポーズ」というものを取ってみる。すると美菜は軽く私の肩を小突いた。
「素早く教室からいなくなったと思ったらサボるためだったわけね。綾加が教室から姿を消してすぐ、朝倉先生がきました。綾加がいない代わりに私が切々と言われたわよ。『保城を部活に……!』って」
 美菜は朝倉先生の口調を真似しながら言う。私は苦笑してから、髪を手で梳いた。
「だって顔出したらすぐ言うんだよね。『早く原稿を上げろ』って――こっちはそれどころじゃないってのに」
 溜め息を零しながら言うと、美菜はやけに明るい声を出した。
「でも無事に捏造せずにすんだじゃない? まあ、その他の問題は諸々という感じではあるけど」
 その声を聞いて、まだ心配されているのだと痛感する。それはそうかもしれない。昨日の今日だったのだし。
 静かな美菜の横顔を見上げて、それから私は俯いた。
 綾人を想えば想うほど、辛い。初恋は実らないとよく言うけれど、本当にそうだ。
「ねえ、綾加。綾加がそんなだと、調子狂うのよ。私まで辛いじゃない」
 美菜は優しくそう言う。その声に、その思いに、ふっと心が緩んだ。
「ありがと、美菜」
 謝罪ではなくお礼を口にして、私は空を見上げた。
 繋がっているのが電話じゃなく、空間だったらよかったのに。そうすれば私は迷わず1987年に行って綾人と話すのに。そうして綾人の傍で、綾人を想い続けるのに。
 こんな不毛な想い、なくなってしまえば楽なのに。そう思えば思うほど、手放したくない想いだと抱え込もうとする自分がいた。
 そんな大切な想いだからこそ、私の初恋だからこそ、綾人に生きていてもらいたい。綾人に未来を紡いでいってもらいたい。
 そう思った瞬間、突然目の前が開けたようだった。
 そうだ、と私は空を見上げたまま思う。私が本当にしたいのは、綾人を救うことだ。
 私がそうすることによって父の初恋が叶わなくなっても。代わりに母と綾人の初恋が叶うことになっても。たとえ、自分が消えてしまったとしても。
 すっと息を吸い込んで、私は美菜を見つめた。
「美菜。私の一言で未来が変わって、私がいなくなったら、美菜はどうする?」
「何よそれ」
 美菜は怪訝そうに眉をひそめたけれど、その瞳は心配そうだった。
「私がある人に一言忠告することで、未来が変わるの。そうすれば私は消えて、美菜の傍からいなくなっちゃう――美菜の記憶からも、消える」
 そっと告げると、美菜はまるですぐにでも私が消えてしまうかのように急いで私の手を取った。ぎゅっと私の手を握る美菜の手が、少しだけ汗ばんでいた。
「綾加はそれをしなくちゃいけないの? 絶対に忠告しなくちゃいけないの?」
 美菜の声は焦った様子はない。けれど余裕は感じられなかった。
「美菜、前に言ってたよね? 美菜は大切な人なら助けるって。未来がどうなるか分からなくても、助けてみないと分からないって」
 涙を堪えて、縋るように美菜を見つめる。美菜は驚いたように目を見張って、それからすぐに悲しそうに微笑んだ。ぎゅっと一度、強く私の手を握った。
 きっと美菜は自分がここでどう答えるかで、この先の私の行動を決めると分かっていたのだと思う。それでも美菜は私から目を逸らさずに、はっきりと言った。
「うん」
 美菜はそう言って、立ち止まる。それから私を真っ直ぐ見つめて、両手で私の手を包んだ。
「でも覚えてて。私は綾加を忘れたりしない。たとえ記憶が消えても、私は綾加を覚えてるから。心の中で、ちゃんと覚えてる」
 美菜は私の事情を知らない。けれど、何となくは勘付いていたのだと思う。私がこれからしようとする、間違っているかもしれない選択を。

 

§
 

 6月21日、月曜日。22時30分。
 ぼんやりとしていた頭に、着信音が割り込んでくる。私はそっと目を閉じてから携帯を取った。
「もしもし」
『もしもし、綾人です』
 いつもどおり、丁寧で上品さが感じられる綾人の口調。けれど今日は、どこか悲しそうだった。
「どうしたの? 綾人。元気ない?」
 心配になって訊ねると、綾人は受話器の向こうで笑った。
『そんなことないよ。いつもどおり、元気』
 そう答える綾人の声は、やはり元気がない。私は少し唇を噛んでから、言った。
「綾人。私、相談には乗るよ? 恋愛のことはやっぱり難しいかもしれないけど、できる限りアドバイスするし!」
 力を込めて言ってみる。すると綾人は、もう一度小さく笑った。
『ありがとう。でも大丈夫だよ』
 そっと私を遠ざけるような声に、私はそれ以上何も返せなかった。ぎゅっと拳を握って、それを解く。
 それからなるべく自然に話題を変えようと頭を働かせる。
 綾人はコンクール用の絵を描きに出掛ける途中で事故に遭ったという。それならまず、コンクールの話題を出してみなければならない。絵の進捗状況を聞いて、それから6月23日には絵を描きに行くなと――。
『ねえ、アヤカ? 聞いてもいい?』
 ぐるぐると忙しなく頭を働かせていると、その思考の合間を縫って綾人の声が届いた。その落ち着いた声に私は我に返って、慌てて言う。
「何?」
 考えに夢中で沈黙したままだった。これでは上手く話題を変えることもできない。何か喋って、それから話題を持っていかなければいけないのに。
 綾人は少し戸惑った様子で、口籠る。私はそれに小さく首を傾げた。
「どうしたの? 言いにくいこと?」
 そっとなるべく丁寧に促すと、やがて綾人は意を決したのか、ゆっくりと静かな声で言葉を紡いだ。
『アヤカのお母さんの名前』
 その言葉に私は一瞬で身体を固くする。けれど綾人はそんな私のことは気づかずに、続けた。
『清加でしょう』
 綾人が静かに紡いだ言葉に、咄嗟に否定できなかった。このことを確かめようとしていたから綾人は元気がなかったのだとすぐに気がついた。
 言葉が出てこない私に、綾人は小さく笑った。
『やっぱりね』
 綾人は諦めと、悲しみに染まった切ない声を出した。その声に胸が焼ける。唇が震える。
「どうして、そう思うの?」
 曖昧な返事を返すと、綾人は小さく息を吐いてから言った。
『声がね……アヤカの声が、清加にそっくりだから』
 静かな指摘に、私は涙を堪えようと唇を強く噛んだ。少しだけ血の味がした。
『初めてアヤカと電話で話した時、僕は清加に繋がったんだと思った。優也が僕に#1580≠フ番号を手渡したから、二人して僕をからかおうとしているんだって思った』
 綾人は落ち着いた声でそう話す。
『でも清加にしては演技が上手すぎるって思ってはいたんだ。清加、嘘が苦手な子だから――それにアヤカと話していると、優也と話しているみたいな錯覚もあって。声は清加なのに、言うことが優也だから』
 綾人はそこで言葉を切ると、心地よい笑い声を上げる。けれどその笑い声はとてつもなく切なくて、胸に突き刺さるようだった。
『でもアヤカが未来の人だって分かって、僕の勘違いなんだって思った。ただの他人の空似だって――でも、アヤカのお父さんが優也だって知って、やっぱり勘違いじゃないって思ったんだ』
 綾人は告げる。その声には私を思い遣るような優しさが含まれていた。
 どうしてあのとき辛くても逃げ切れなかったのだろう。名字は言わないと。
 どうしてあのとき否定できなかったのだろう。父の名前は優也ではないと。
 どうして私に気を遣うの? どうして私に優しくしてくれるの? 傷ついているのは、綾人なのに。
『だから、嘘は吐かないで』
 懇願のような響きに、涙が滲む。
 何度も綾人に嘘を吐いた。けれど、今回はどうしても嘘を吐けなかった。今こそ、嘘を吐くことができたならよかったのに。
「ごめん」
 それが精一杯だった。それ以上は、嗚咽にまみれて言葉にならないと思った。
「ごめん……綾人、ごめん」
 募っていく言葉を抑えて、それだけを告げる。しばらくしてから、綾人が言った。
『僕こそ、ごめんね』
 その声に、私に対する怒りや苛立ちはない。ただただ、静かすぎる声だった。
「どうして綾人が謝るの」
『だって、辛かったでしょう? 優也と清加が僕の親友だって、きっとアヤカはずっと前から気がついていたんでしょう? それなのに僕が清加を好きだって言って、悩んだでしょう? どうすればいいか、分からなかったでしょう』
 どこまでも私を気遣う言葉に、私は涙を堪えながら怒った。
「何で綾人がそんなこと言うのよ――何で綾人が私を気遣うのよ。ずっと黙ってた私に怒ればいいのに。綾人はそうすべきなのに」
 少しだけ声を荒げて言うと、綾人が優しく微笑んだような気がした。
『怒れないよ――だってアヤカは僕の大切な親友の娘さんで、それで今は、僕の親友だから』
 綾人はまるで大切なことのように、そっと告げる。その声に、私は溢れる涙を抑えられなくなった。次から次へと零れ出る涙に頬を濡らして、顎から雫が零れていくのにも気を留められなかった。
『アヤカは優也に似てるの?』
「……性格はね……」
『顔は清加に似てるんだね』
「……どうして?」
『だって前に言ってたでしょう。美人だって。それに声も似てるし』
 綾人は当たり前のようにそう言った。私は「私の言うことなんて当てにならないよ」と返すのが精一杯だった。
『アヤカって、どう書くの? 漢字』
 穏やかに訊ねてくる綾人に、私は泣き声を漏らしてしまった。けれどすぐに気を取り直して、しっかりと気持ちを奮い立たせた。
「『アヤカ』のアヤは綾人の綾。『アヤカ』のカは清加の加」
 言うと、綾人は暫く黙った後で一言告げた。
『素敵な名前だね。綾加=x
 そう言って、綾人は電話を切った。
 切れてしまった携帯を持って、私は崩れ込む。
 綾人、ごめん。私は何もしてあげられなかった。慰めることも、違うと否定することも。どうしても、できなかった。
 綾人がどれほど清加≠想っているかを知っている。
 清加≠ェどれほど綾人を想っているかを知っている。
 優也≠ェどれほど清加≠思っているかを知っている。
 それなのに――それだからこそ、何も言えなかった。

 

 

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