06


「ねえ、綾加」
 とぼとぼと歩いていると痺れを切らしたのか、美菜が私の顔を覗き込みながら言った。
 私は1987年に寄せていた思考を現代に戻して、美菜の顔を見つめた。
「今日、ずっと変よ。何かあったの? もしかして昨日の奥見綾人さんと関係あること?」
 美菜は心配そうな顔つきで、ゆっくりと訊ねてくる。鋭くポイントを突いてくる美菜に、私は思わず苦笑を浮かべていた。
「ちょっとね」
「ちょっとじゃ分からないわ」
 美菜は不満そうにそう言ってみせるけれど、その声はとても優しい。
 親友。私にとっての美菜はかけがえのない存在。美菜がいなくなったら、私はきっと耐えられない。
 そして綾人は両親の親友。綾人を失った両親は、どうやって耐えたのだろう。
 何も言えない私に、美菜は話題を変えることにしたらしい。いつもの笑顔で美菜は微笑むと、歩調を上げて歩き出した。
「綾加、クラブにちゃんと顔出してるの? この間、英語部の顧問の先生――何て言ったっけ? 朝倉(あさくら)先生か。朝倉先生に言われたのよ。『部活にくるように保城に言ってくれ』って。綾加と私が幼馴染だって知って、朝倉先生わざわざ生徒会室まで頼みに来たんだから」
 いつもどおりの空気を作り出してくれた美菜に感謝しながら、私も喋る。
「うーん……幽霊部員と化してるからなぁ、私」
 あははと笑って美菜を見ると、美菜は大きな溜め息を吐いた。
「もうすぐスピーチコンテストでしょ。綾加が部のエースじゃない。スピーチのテーマは予め決まってるんでしょ? だったら後は書くだけじゃない」
「それがさぁ、スピーチテーマが『初恋』とかいうネタみたいなテーマなんだよね」
 この世の終わりのように告げると、美菜は頬をぴくりとひくつかせて固まった。
「綾加、それ書けるの……?」
 そっと確かめるように訊ねてくる美菜に、今度は私が溜め息を零した。
「もうこの際、捏造(ねつぞう)しようかと……」
 私が呟くと、綾加は何も言わずに頷いた。
 私は17年間生きてきて、恋をしたことがない。男の子のことを格好いいと思ったり、優しいなと思ったりすることは今まで何度もあった。けれどそれは恋ではなかった。
 好き≠ネ男の子は沢山いたけれどそういう好き≠抱いたことが一度もなかった――つまり、みんな友達としか思えなかったのだ。
 綾人のことといい、スピーチコンテストのことといい、今は頭の痛い問題ばかりだ。どうしてこう一時に押し寄せてくるのだろう。
 小さく俯いて、それから隣を歩く美菜をそっと伺った。私が今、ずっと考えていることに、美菜ならどんな答えを導き出すだろう?
「……美菜、訊いてもいい?」
「何?」
 荘厳なことを訊ねるように、私はそっと目を伏せた。少し傷がついているローファーは、止まることなく前に進んでいる。
「もしもの話なんだけどね」
「うん」
「もしも……運命を変えるチャンスがあるとしたら、どうする?」
 私は目を伏せたまま呟く。隣で美菜が小さく唸り声を上げた。
「質問が漠然としすぎてて、どう答えたらいいのか分からないんだけど」
「たとえば、死ぬはずの人がいるとするでしょ。でも美菜にはその人が死ぬっていう運命を変えるチャンスがあるの。そうしたらどうする?」
 今度は目を上げて、美菜の顔を見つめる。美菜は難しそうに眉を寄せて、それから肩にかけた鞄の取っ手をぎゅっと握った。
「どうするだろう……その人が私にとってどういう存在の人かにもよるけど」
「たとえば、死ぬのが私だったら?」
「助ける」
 私が訊ねると、美菜は間髪を入れずにそう答えた。その瞳は揺るぎない。美菜はじっと私を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「綾加だったら助ける」
 美菜はそう繰り返して、傾いた日が浮かぶ空を見上げた。
「運命を変えるなんて、もしかしたら間違ったことなのかもしれない。だけどね、こうも考えられると思うの。その人が死ぬっていう運命の方が間違ってるんだって」
 美菜は静かにそう話す。その横顔が、とても儚く美しく見えた。
「その人が生き残ることでこれからの世界が変わってしまうかもしれない。世界が壊れてしまうかもしれない。でも、未来がどうなるかなんて助けてみなくちゃ分からないじゃない。私はその人が大切な人なら、助ける」
 美菜はそう言うと、私へ視線を戻して小さく微笑んだ。私はその笑顔にほっとして、頷く。
「そうだよね」
 そう呟くと、心が落ち着いた。
 綾人を救うことで、今あるものが崩れるかもしれない。綾人を救おうと動いて、その結果綾人を救ったとしたら、それは間違った未来を紡ぐことになるかもしれない。
 でも美菜が言ったように、綾人が死ぬなんていう運命自体が間違っているという可能性だってある。
 綾人が私にとって大切な人かどうかと訊かれたら、それは否だと答えざるを得ないけれど――綾人は私の両親にとってかけがえのない大切な人だった。両親は私にとって大切な人だ。だったら、綾人は私の大切な人の、大切な人だ。
 それだけで十分だ。綾人を救う理由が、私にはある。

 

§
 

 6月16日、水曜日。22時30分。
 やっと時計がその時間を差したとき、定時きっちりに携帯が鳴った。私は深呼吸してリラックスすることを心がけながら、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『もしもし、綾人です』
「こんばんは、綾人」
 少し丁寧に挨拶してみると、綾人が受話器越しに固まったのが分かった。それに少しむっとして顔をしかめていると、綾人が低く心地よい声で笑い声を上げる。
『どうしたの? 改まって』
「私が改まったら可笑しいわけ?」
 低く声を出すと、綾人はもう一度だけ笑ってから言う。
『そうじゃないけどさ――でもそうやってくだけてる方がアヤカって感じがする』
「ふぅん」
 何だか散々な評価な気がしたけれど、私はそう言った。
 そして私は意を決して口を開く。22時30分になるまでに、何度もシミュレーションはしている。なるべく綾人を動揺させないように、静かに話さなければ。
「あや――」
『ねえ……って何? 何か言いかけたよね?』
 見事に被った私と綾人の台詞に、綾人がゆっくりと促す。私はその優しい声に少し考えてから、結局首を振った。綾人の話に付き合ってからでも遅くはない。綾人が事故に遭うまでにはまだ一週間ある。
「ううん、先に綾人がどうぞ」
 私がそう言うと、綾人は『ありがとう』と丁寧に断ってから言った。
『未来の話が聞きたいんだ。差し支えない程度で構わないから。やっぱり興味あって』
「まあそうよね、普通。これで全然未来に興味ないとか言われたら困るところよ」
 私はこれから綾人の未来を作ろうとしているのだから。2010年に興味を持ってもらって、その時代まで生きたいと思ってもらわなければいけない。
「でも何話せばいい? 私には何が珍しいのかも分からないんだけど」
『そっか――そうだよね。えっとそうだな……2010年の姫治西高ってどんな感じ?』
「普通だよ。えっとねえ……制服は1987年のとは変わったみたい。そっちはセーラー服に学ランでしょ? 今はブレザーなの」
『そうなんだ。変わっちゃうんだ』
「うん。男子はネクタイして、女子は大きなリボンして。この制服、可愛いって評判なんだよ」
『アヤカも似合うだろうね』
 そっと優しく紡がれた綾人の言葉に、ほんのりと胸が温かくなる。不覚にもときめいたことに気がついて、私は慌てて首を振ってその気持ちを綺麗に消し去った。
「似合うわよ。私、美人だし」
 美菜からは「美人に見えない」と言われたばかりだったけれど、私は自信たっぷりにふんぞり返って言ってみる。すると綾人は小さく笑った。
『本当?』
 少し悪戯っぽく紡がれた台詞に、再び胸が温かくなる。私はそっと胸を抑えて、携帯を握った。
「本当よ。お見せできなくて残念。私のこの顔を見たら綾人はきっとひれ伏すわね」
 敢えて高慢に言ってみると、綾人はまた笑った。
『でも本当、見られなくて残念だな。アヤカは僕の顔を知ってるのに、僕はアヤカの顔を知らないんだから……いや、会おうと思えば会えるんだよね? 僕はもう17歳じゃないけど。23年後の僕に、アヤカに会いに行くようにさせようか』
 綾人は冗談っぽくそう言って、くすくすと笑った。
 そう、冗談だ。単なる冗談なのに、私は固まってしまって何も返せなかった。
 私は綾人の顔を知らない。結局、綾人の顔は見られずじまいだったのだ。
 あまりに長いこと黙っていたら綾人に不審に思われる。そう思えば思うほど、私の口は固く閉ざされてしまう。
『アヤカ? 冗談だよ? そんな、いきなり40歳のおじさんが女子高生を訪ねて行ったりなんてしないから、安心して』
 私の沈黙を、綾人はそんな風に勘違いして慌てた様子で言った。
 綾人に会えるなら、迷惑なんかじゃないのに。たとえ17歳ではなくて40歳の綾人だとしても――いや、40歳の綾人に会えた方が私は嬉しいのに。
 そう思ったけれど、その言葉は言葉にはせずに、私は変わりの言葉を口にした。
「もう、本当に会いに来てくれる――じゃなくて、会いに来るのかと思ったじゃない」
『ごめんね』
 綾人が謝る必要なんてないのに。その言葉も押し止めて、私は言った。
「えっと……あとはね、携帯電話がかなり発達してるよ。そっちにもあるでしょ? 多分」
『うん、あるよ。あの分厚いやつでしょ? あんなの携帯しても重くて大変だと思うんだけどなぁ』
 綾人は難しそうな声を出して唸る。それに笑ってから、私は言った。
「もうそんな分厚くないよ。折り畳み式とかもあってね、厚さは多分――」
 私は耳から携帯を離して、目分量で測る。それからまた携帯を耳に付けた。
「折り畳んでも3cmくらいじゃないかな」
『えっ! あんなに分厚い電話が、そんなに薄くなるの!? ますます高そうだね……』
「いや、大抵みんな持ってるよ。高校生ともなればほとんど全員。今時、小学生でも持ってる子多いからね」
『えっ! じゃあアヤカも持ってたりするの?』
「うん。っていうか今、携帯で話してる」
 綾人は『そうなんだ……』とぽつりと呟く。携帯の話は綾人には刺激が強すぎたのかもしれない。
 けれどこれで落ち込んでもらわれては困る。私はこれから「携帯なんて軽い衝撃だった」と綾人に思わせてしまうようなことを告げるのだから。
 すっと息を吸い込んで、吐く。口を開けて言葉を紡ごうとした瞬間、先に綾人が喋り始めてしまった。
『ねえ……話はすごく変わってしまうんだけど、アヤカって好きな人とかいるの?』
 私は開けていた口をさらにぽかんと大きく開けて「え?」と間抜けな声を出してしまった。
『いるのかなって、ちょっと思っただけ』
 綾人は珍しく狼狽えたような声を出す。その様子に私はこれから話す内容を忘れて思わず笑ってしまった。
「すごくタイムリーな話題ね」
『な、何が?』
「今日ね、親友と恋の話をしてたから――さて。綾人の質問に答えると、私に好きな人はいない。でも、綾人にはいるんでしょ? 好きな人」
 少し首を傾げてみる。綾人は電話口で戸惑っているのか、何も話さない。私は辛抱強く綾人を待つ。少し天井を見上げて、ベッドに倒れ込んだ。
 暫くしてから綾人は、小さな探るような声を紡いだ。
『どうしてそう思うの?』
 その質問に微笑んでから、私は心理学者気取りで答える。
「綾人に好きな人がいないなら、わざわざ私にそんな質問しないでしょ?」
 少しからかって言ってみる。すると綾人は小さく呻いて、それから観念した様子で話し始めた。
『あの……誰にも言ったことないんだ――親友にも』
 綾人が言った「親友」に反応してしまう。それはつまり、父にも、そして母にも話したことがない綾人の恋の話を、私は聞くことになる。親友の両親をすっ飛ばして、だ。
「うん」
 ベッドから起き上がって背筋を伸ばす。ちゃんとした格好で聞かなければならない気がした。
『僕ね、中学生の頃からずっと好きな子がいて。その子はすごく綺麗な子で、僕なんて多分、友達としてしか見られてないと思うんだ。でも、好きなんだ』
「うん」
『どうすればいいんだろうって思ってて……このまま、今までどおりずっと付き合っていきたいって思う気持ちと、想いを伝えたいっていう気持ちがあるんだ。でも、想いを伝えてその結果ぎくしゃくしたら嫌だなって』
「うん」
『……アヤカなら、どうする?』
 綾人は恐る恐るといった様子で訊ねてくる。私は小さく息を吐いてから、首を振った。
「ごめん、綾人。私、恋愛の相談って乗れないの」
『どうして?』
 不思議そうな綾人の声に、悲しい気持ちを孕んだ胸が疼いた。
「私、誰かを好きになったことが、なくて……役に立てなくて、ごめん」
『あっ……ううん。アヤカが謝ることじゃないから。僕の方こそごめん。いきなりこんな話して』
「ううん――ねえ、綾人」
『なあに?』
 綾人はまるで、傷ついた子猫に対するように、そっと優しく言ってくれる。慰められているのだと、ふと感じた。
「私、相談には乗れないけど、話を聞くことくらいならできるよ。だから、話して欲しいな」
 心を込めてそう告げると、綾人は小さく笑った。
『ありがとう』
「こちらこそ、ありがと――あっ。ねえ、聞いていい? その女の子の名前」
 ふっと気持ちが緩んだ瞬間に、私はそんなことを口走っていた。
『どうして?』
 綾人が中学生の頃から大切に想っていた女の子――その人は、綾人がいないこの世界をどう思っているのだろう。それを知ることはできないだろうけれど、綾人が大切に想った女の子を知りたいとは思った。
「卒業アルバムで顔を確かめたいなって思ったの。すごく綺麗な子なんでしょ?」
 彼女の顔に期待しているわけではないけれど、興味はある。綾人が綺麗だと思う人の、顔。
 綾人は『えぇ……』と戸惑ったような声を出してから、すっと息を吸い込んだ。そして、言葉と一緒に息を零す。
『サヤカ』
 愛しそうに、大切に紡がれた一人の名前。
 それが聞き間違いであって欲しいと思った私は、酷い人間だろうか。
「えっ……?」
 弱々しく声を絞り出す。すると綾人はもう一度、はっきりと言った。綾人が愛しく思う、その人の名を。
『カサナミ、サヤカ』
 笠波、清加。
 それは、私の母の名前だった。

 

 

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