05


「生徒会副会長の末広美菜さんに――」
「はいはい。今度は何?」
 鞄に荷物を詰めながら美菜はちょっと笑った。私は美菜にペンケースを差し出しながら言う。
「卒業アルバムが見たいの。1988年度の」
「資料の次はアルバムね」
 美菜は小さく溜め息を吐いて、やれやれといった表情を浮かべる。私はしゃがみ込んで両手を顔の前で擦り合わせて目を瞑った。
「お願いします!」
 美菜が椅子から立ち上がる音が聞こえてそっと片目を開いてみると、美菜が両手で鞄を持って私を真っ直ぐ見下ろしていた。
「何してるの綾加。早く行くわよ」
 美菜は軽くそう告げると、さっさと踵を返して歩いて行ってしまう。私は慌てて立ち上がって鞄を肩にかけ直すと、教室を出ようとしていた美菜に並んだ。

 

§
 

 1988年度の卒業アルバムを棚から引っ張り出して席に着いた私の隣で、美菜は頬杖をついて私を眺めていた。その視線に気がついた私は、疑問符を頭に浮かべながら首を傾げてみせる。すると美菜は苦笑を浮かべた。
「一体何事なの? 昨日の資料といい、今日の卒業アルバムといい」
「ちょっとね」
 美菜にそう答えてから、私は思い直して少し背筋を伸ばす。それから卒業アルバムの表紙に右手を置いて「1988」という数字をそっと指でなぞった。
「好奇心と冒険心、かなぁ」
「何よそれ」
 呆れた声で美菜が言う。ちらりと目を遣ると、美菜はにっこりと微笑んでいた。
「とにかく、今はそれが必要なんでしょ? 早く見て、早く帰ろ。役員会議もないのに二日連続で生徒会室に入り浸ってるって知られたら私も面倒だし」
「ごめん、美菜。付き合わせちゃって」
「いいから早く見ちゃって」
 美菜はそう言って促す。私はひとつ頷いてから、アルバムの背表紙を捲る。校長や教頭や教師陣には目もくれず「3年1組」と掲げられたページを開いた。
「本当に数字だったのね……それに制服がブレザーじゃない」
 1988年度の卒業生が着用している制服を見て、私は自分が着ている制服を見下ろす。1988年の卒業生たちは学ランにセーラー服だけれど、現代の学生である私はブレザーだ。
 そんなことを小さく呟いてから、男子生徒の名前を追っていく。アヤトの顔は知らないのだ。だから名前から探すしかない。
 アヤトの名字は何て言っただろう? 確か初めて電話がかかってきた日に、彼はフルネームを名乗ったはずだ。確かオクなんとかだったはずだ。オクダ? オクヤマ?
 つるつるのページの上を指が滑っていく。けれどそれらしい生徒の名前は見つからず、私は続けてページを捲った。
「さっきから誰か探してるの? 手伝おうか」
 美菜の声に私はアルバムに目を滑らせたまま、小さく頷いた。
「男子生徒を探してて。名前がちょっとあやふやなんだけど……オクなんとかアヤト」
「オクなんとかって……」
「オクダだったかな? そうじゃなくオクミヤだったかも――違う。オクミだ」
 はっと思い出して、私は低く呟いていた。
「オクミ、アヤト」
「どういう漢字書くの?」
「えっと……ごめん。分かんない」
 思わず困った顔で美菜を見つめると、美菜は「調べる気あるの?」と呟いてから立ち上がって棚に向かって歩いていく。不思議に思って美菜を見つめていると、美菜はそれを知っていたかのように言った。
「1988年度の卒業生名簿で探してあげる。綾加はそのまま前のクラスから探していって。私は後ろから探すから」
 美菜はそう言って「1988」とラベルの貼られたファイルを持って席に着いた。
「ありがとう、美菜」
 親友の頼もしい姿を見つめて、心を込めて言う。美菜は小さく笑ってから資料に目を落とした。
 かちかちという秒針の音しかしない生徒会室。既に私は5組のページに移っていた。
 そっとページの上に指を滑らせて名前をなぞっていく。けれどアヤトの名前は未だに出てこない。
「綾加。今、何組調べてる?」
「5組」
 私が言うと、美菜は「えっ」と小さく呟いた。つられて私が顔を上げると、美菜は困ったような顔で私を見つめていた。
「どうしたの?」
 軽く訊ねると、美菜は髪を耳にかけながら言い難そうに言った。
「私、今4組を調べてるけどいなかったわよ。オクミアヤトっていう人」
「えっ! 嘘でしょ」
 驚いて卒業アルバムのページをぱらぱらと捲っていた。
「嘘吐いてどうするのよ。ねえ、本当にその人は1988年度の卒業生なの? 年度間違えてるんじゃない?」
「そんなことないと思うんだけどなぁ……。1987年に2年生だったの。それなら1988年度に卒業するはずでしょ?」
「確かにそうね……。その人が間違いなくここを卒業したっていうのは分かってるの?」
 美菜はファイルを持って立ち上がると、棚に向かって歩いていく。私は椅子の背もたれに背を預けて、天井を見上げた。
「うん――いや、待って。分かんないかも」
 私と毎夜話しているアヤトはあくまで1987年のアヤト≠セ。そしてそのアヤトはまだ二年生なのだ。彼が卒業する1989年の春は、私が知っているアヤトからすれば未来の話になる。
「何よそれ」
 美菜は疲れた声でそう言って、また違うファイルを持って戻ってきた。それを見つめて首を傾げると、美菜は私が口を開く前に言った。
「1987年に2年生ってことは――なかなかないことだとは思うけど、3年生で違う高校に転校したってことも考えられるわ。とにかくそのオクミさんがいつまでここに在籍していたかでも分かればね」
「そういうことまで載ってるもの?」
「まさか。そのオクミさんが学校便りとか、そういうプリント類に名前を載せる有名人であったことを祈るしかないわ」
「あぁ神様ー」
「こんなときだけ神頼み?」
 美菜は笑ってそう言うと、プリントを捲った。私は溜め息を吐いて、卒業アルバムをぱらぱらと捲る。そして見知った名前が見えた気がして、手を止めた。そのページを開いて、姿勢を正す。するとそれに気がついたらしい美菜が顔を上げた。
「何? 見つかった?」
「違う人が見つかった」
 私は美菜に卒業アルバムを差し出して、両手の人差し指で二つの名前を指差した。
笠波(かさなみ)清加(さやか)に……保城(ほうじょう)優也(ゆうや)――って、もしかしてこれ、おじさんとおばさん!?」
 美菜は珍しく驚いた様子でまじまじとアルバムに見入っている。私は微笑んで頷いた。
「若かりし頃の両親です」
 笑って言うと、美菜はアルバムと私を交互に見つめてしみじみと言った。
「おばさんってすごい美人だったんだ……おじさんも格好いいし」
「……ちょっと美菜。私とアルバムを交互に見たのには一体どういう意味があったのかしら」
 敢えて微笑んで言ってみると、美菜は可哀想なものを見るように私を見つめた。
「綾加っておばさんに似てるのにどうして美人に見えないんだろ……」
「余計なお世話!」
 斬り捨てるように私が言うと、美菜は笑う。それから今度は美菜がファイルを私に差し出した。そしてプリントの一か所を指で差して見せてくれた。
「手掛かり発見」
 そう言われてプリントの文字を読むと、そこには「2年5組 奥見綾人」という文字が書かれていた。
 奥見綾人――オクミ、アヤトだ。
 驚いて身を乗り出した私に向かって美菜は続ける。
「有名人で助かったわ」
 美菜は言って、その続きの文章も指し示した。そこには県の美術コンクールで銀賞を取ったというアヤト――綾人の記事が載っていた。プリントの日付は6月2日。
 食い入るように綾人の名前を見つめていると、スピーカーからチャイムの音が流れ出て、辺りに反響した。
「もう帰らなくちゃ――綾加。帰るわよ」
「でもまだ――」
「有力な手掛かりを持ってる人が身近にいるでしょ?」
 美菜はそう言うと、卒業アルバムに笑顔で写る両親の顔を指し示した。私はそれを見てはっとしてから、ゆっくりと頷いた。

 

§
 

 かちゃかちゃと、お椀に箸が当たる音がする。家族揃って夕食の席に着いている今、私の頭の中はどうやって話を切り出すかで一杯だった。
 じっとタイミングを見計らっていると、小さく溜め息を吐いた父が私を見つめた。
「綾加。からかわれたことはショックだろうが、立ち直らないと。男なんてこの世に吐いて捨てるほどいるんだからな」
 妙に真剣に父は言う。私は真面目な父の顔をぽかんと見つめて「うん」と言ってから、我に返って勢いよく首を振った。
「違う違う! もうそんなことはどうでもいいのよ」
 ぶんぶんと首を振って否定するのが、逆に怪しいと思われたらしい。母は悲しそうな顔つきになった。
「だから、違うんだってば」
 続けてそう言うけれど、それも真実味を欠いてしまったらしい。否定すれば否定するほど嵌っていく泥沼に、私は目を瞑ってもう一度首を振ってから、目を開けた。
「そんなことより、聞きたいことがあるんだけど」
 無理やり話題を変えたのも、どうやら悪かったらしい。父は神妙に頷いて、母は慈愛に満ちた目で私を見つめた。
「奥見綾人って人、知ってる? お父さんとお母さんとは高校の同級生だったと思うんだけど」
 少し早口で訊ねてから、私はご飯を口に運ぶ。咀嚼して呑み込んでから改めて二人を見ると、二人は揃いも揃って目を見張って私を見つめていた。
「え……何?」
 怪訝に思ってそう訊ねると、二人は同時に目を伏せた。それから父がゆっくりと口を開いた。
「どうして綾人のことを聞きたいんだ?」
「えっと……たまたま学校で美術関係のプリント見てて……それでその人が1987年に県のコンクールで銀賞取ったって書いてあったから――ってお父さん。今『綾人』って言った?」
 奥見君ではなく綾人と、親しげに。
 そして不意にぴんとくる。綾人が言っていた、親友の話。一人は男の子、もう一人は女の子。男の子の誕生日は4月で、女の子の誕生日は1月。
 私の父の誕生日は4月9日、母の誕生日は1月20日――こんな偶然、あるだろうか?
「知り合い、なの?」
 そっと訊ねると、父も母も顔を見合わせて、それから静かに箸を置いた。
「綾人は――親友だ。いや……親友だった≠ニ言った方がいいのかもしれない」

 

§
 

 6月15日、火曜日。22時30分。私の携帯は五度目の「番号通知不可能」を示しながら、メロディを奏でた。
 私は携帯を持って暫くの間逡巡してから、結局通話ボタンを押した。
「もしもし」
『もしもし、アヤカ? 綾人です』
「うん……」
『今日、ニュース見たんだ。そうしたらアヤカが言ったとおりだった。今日ね、衣笠選手に国民栄誉賞が授与されるって発表されたんだよ』
 綾人は少し興奮した声で話す。その声にぎゅっと胸が痛くなった。
「そっか……じゃあ、信じてくれたの?」
『信じるしかないよ。というか、僕は信じたいって思う。偶然でこんなことないと思うし』
「そうよね……」
 ぽつりと呟くと、綾人は一瞬静まり返って、それから労わるような声を出した。
『アヤカ、どうかした? 体調悪い?』
 受話器越しに、しかも23年越しで心配されてしまっている。私は自分が情けなくなって、無理やり明るい声を装った。
「え? ううん。大丈夫」
 私がそう言うと、受話器から綾人がほっとしたような溜め息を零したのが聞こえた。
『じゃあ、アヤカの方はどうだった? 卒業アルバム』
「え!?」
 綾人に訊ねられて、思わず声が裏返ってしまった。それから私は慌てて口を覆って、携帯を遠ざける。小さく『アヤカ?』という綾人の声が聞こえたけれどそれは無視して、深呼吸を繰り返した。
 落ち着け、私。落ち着かなくちゃ、私。
 そう言い聞かせてから、私は携帯を耳元に戻す。
「見てきたわよ、アルバム」
『どうだった?』
「――載ってたわ」
『そっか。じゃあアヤカも本当に信じてくれた?』
「うん、信じてる」
 私は明るくそう言いながら、ぎゅっと携帯を握った。
 嘘を、吐いてしまった。綾人に。じわりと涙が込み上げてきて、私は慌てて言った。
「――ごめん綾人。あのね、私今日はちょっと忙しいの。宿題が山ほど出ちゃって……まだ終わってないのよ。明日提出のもあるから、やらなくちゃ」
『そうなの? じゃあ悪いことしちゃったね。今日はもう切るね。また明日、電話してもいい?』
 純粋に、澄んだ声で綾人が言う。その声に再び胸が締め付けられて、けれど私は気持ちを奮い立たせて明るく言った。
「うん。明日またかけてきて」
『ありがとう。じゃあ、また明日。宿題頑張ってね』
 綾人は優しくそう告げると、電話を切った。私はすぐに電源ボタンを押して、携帯を閉じる。それからベッドに倒れ込んだ。
「私に、どうしろって言うのよ……」
 呟いて、腕で目を抑える。
 奥見綾人――その人は、間違いなく私の両親の親友だった。かけがえのない、とても大切な、親友。
 彼は絵を描くことが好きで、その上とても上手で、コンクールの賞を総なめにしていたらしい。彼は親友である私の両親に、美大に進学したいと嬉しそうに話していた。未来に希望を持って、輝く瞳で。両親は綾人のその姿が、今でも忘れられないという。
 そんな両親の大切な親友、奥見綾人は、1987年の6月23日、学校から帰ったあとコンクール用の絵を描きにでかけた途中で、交通事故に遭って亡くなった。17歳という、若さで。

 

 

back  1987年の思い人トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system