04


 昨夜の憤懣とした気持ちを抱えたまま朝食の席に着くと、驚いたように父と母が私を見つめた。
「朝からどうしたの? 綾加」
 母の柔らかい声に身体に溜まっていた怒りが少し薄れる。それでも話す気にはなれなくて、私は小さく肩を竦める。それからトーストに手を伸ばして口いっぱいに頬張った。
「むくれているとよくないぞ。そんなんじゃみんな怖がって綾加に寄ってきてくれないぞ」
 父は面白がってそんなことを言う。せっかく薄れた怒りが再び濃くなって戻ってくる。私はその気持ちに任せて、紅茶を呑みながらぎろりと父を睨んだ。
「機嫌悪いの」
「敢えて宣言しなくても分かってる」
 父は目を伏せてコーヒーを啜る。軽く交わすようなその反応に、私は眉間に皺を刻んだ。
「何があったの? 美菜ちゃんと喧嘩でもしたの?」
 母は席に着きながらおっとりと訊ねてくる。そんな母を見て、私は眉間に指を押し当てて皺を伸ばした。
 私は一体誰に似たのだろう。父も母も気が長い方だ。父はいつでもゆったりとしているし、特に母なんていつでもおっとりとしていて微笑んでいる印象しかないくらいだ。
 この気性の短さは誰譲りだろう。そんなことを考えながら、私は昨夜のアヤトとのやり取りを思い出していた。
「美菜とはいつもどおり仲良し。喧嘩なんてしないよ。別の人間にからかわれて、すごく嫌な気分なだけ」
「誰にからかわれたんだ?」
「すごく真面目そうで誠実そうなやつ。だから信じたのにうっかり騙されちゃったのよ」
「男の子?」
 驚いたように訊ねてくる母に頷いて答えると、父が咳き込む。それから急いで顔を上げた父は、私を真っ直ぐ見つめて言った。
「どこのどいつだ?」
「それがねえ……」
 姫治西高の2年5組のオクミアヤトと名乗る正体不明の輩と答えればいいのだろうか? さすがにそれでは話にならないだろう。私はもう一度、肩を竦めた。
「同じ高校に通ってるはずだったんだけどね……相手が在籍してるのがありえないクラスだったの」
 それだけ答えて目玉焼きにフォークを突き刺す。私の答えを聞いた二人は案の定、不思議そうな顔をしていた。
「2年5組だって。ありえないでしょ? 姫治西高はアルファベットでクラス分けしてるっての」
 唇を突き出して言ってから、目玉焼きを頬張る。濃い黄身の味とさっぱりとした白身の味が程よく混ざり合って口の中で消えていく。そのままトーストを頬張っていると、母がカップをそっと置いた。
「もしかしたらその男の子、昔の資料でも見たのかもしれないわね」
 静かに話す母に小首を傾げると、隣で父も頷いた。
「父さんたちが通っていた時の姫治西高は、数字でクラス分けされてたからな。今みたいにアルファベット制になったのは、結構最近だと思うよ」
「そっか……そう言えばお父さんもお母さんもうちの高校の卒業生だったっけ」
 トーストをかじりながら、私はぼんやりと言った。
 だったらアヤトは、何年か前の姫治西高の資料を見て私を騙そうとしたということだろうか? というか一介の女子高生をからかうためにそこまでするのだろうか?
 さっぱり訳が分からない。
 うーんと唸っていると父は席を立って、そのすぐ後に母の穏やかな声が耳に届いた。
「綾加、そんなにゆっくりしていていいの? 遅刻しない?」
 その声で我に返った私は素早く時計に目を走らせる。時刻は既に8時を差していた。
 家から高校まで15分。そろそろ出ないと間に合わない。私は軽く頭を振って気を持つと、急いでトーストを詰め込んで席を立った。

 

§
 

 ホームルームが終わりを告げるチャイムが鳴り響いてすぐに、私は鞄に荷物を詰め込んで美菜の元に駆け寄った。
「美菜。お願いがあるんだけど」
 美菜の机に勢いよく両手を置いた私を見上げて、美菜は胡散臭そうな表情を浮かべた。
「何? 変なことじゃないわよね?」
 念を押すような、それでいて勘ぐるような視線を注いでくる美菜に、私は構わずに続ける。
「生徒会副会長であられる末広美菜さんに折入ってご相談が――」
「はいはい。何?」
 美菜は私の丁寧な(へりくだ)った口調を途中で遮ると、鞄にペンケースを仕舞う。私はそれを見ながら言った。
「資料見たいの、姫治西高の」
「え? 資料?」
 ぴたりと手を止めた美菜は、不思議そうに私を見上げる。私はひとつ頷いてから口を開いた。
「そう、資料。この学校って昔はアルファベットじゃなくて数字でクラス番号を打っていってたんだって。だから、いつアルファベット制に移行したのか知りたくて」
「そんなもの知ってどうするのよ」
「とにかく、今の私に必要なの」
 アヤトをぐうの音も出ないほど理詰めで追い詰めてやらないと気が済まない。そうでなければ私の貴重な日曜日の40分間が可哀想というものだ。
 じっと真剣に美菜を見下ろし続けていると、美菜は大きく嘆息して立ち上がった。
「分かったわよ。生徒会室に三、四十年分の資料ならあるからついて来て」
「ありがとう美菜! 頼りになるー」
「現金な子ね……」
 美菜はそう言うと、すたすたと歩いて廊下を曲がって行ってしまう。私はそれを追い掛けて廊下を曲がると、階段を駆け足で上がって行った。

 

§
 

 しっかりと鍵が掛けられていた棚を解錠してくれた美菜は、その戸を開いてくれてから椅子に腰かけた。
「ちゃんと年代順に並んでるから、見たら元に戻しておいてよ?」
「分かってる。ありがと」
 棚には年代順にずらりと並べられた姫治西高の資料と卒業アルバムが保管されていた。私は資料を引き出しながら、美菜に背を向けたまま言う。既に頭は何年前辺りから調べるか、ということで一杯だった。
 取りあえず当りを付けて20年前でどうだろう?
 ひとりでそんなことを思いながら、20年前の資料がファイリングされているフォルダをどっさりと引き出して机に置いた。
「クラス分け……クラス分け……」
 呟きながら資料を捲っていく。綺麗にファイリングされた資料はとても見やすい。この資料を整理してくれただろう昔の生徒会役員に心の中で感謝しながら、目でクラス分け情報を追っていく。
 もう何枚目になるか分からないページを捲ったところで私の動きはぴたりと止まった。
『アルファベット制へ移行』
 プリントされた文字を見つめて、前後の資料を確認する。その前の資料までは数字で書かれていたクラス番号が、その資料を境にアルファベットに代わっていた。
「見つかったの?」
 顔を上げてみると、美菜がこちらに歩いて来ながら読みかけの文庫本に栞を挟んでいるところだった。私は美菜に頷いてから、資料の発行年を確かめる。
「1999年度――その年からアルファベット制に移行してる」
「結構最近なのね……11年前か」
 美菜は資料を覗き込んで呟いた。それから美菜は顔を上げると、私をじっと見つめながら言った。
「それで? これを知ってどうするのよ」
「ちょっとね」
 私は軽い調子でそう言ってから、ファイルをぱたんと閉じる。棚から運んできたフォルダを持ち上げて席を立つと、物言いたげな美菜に背を向けて棚に歩いていく。
「まあいいわ。これで気が済んだの?」
 美菜は諦めたような声を上げて、問いかけてくる。私はちょっとだけ振り返りながら、笑顔で頷いた。
「うん。ありがとう。これで十分」
 そう言ってからフォルダを元あった場所に戻していく。美菜が背後で帰り支度を始める音が聞こえた。

 

§
 

 6月14日、月曜日。22時30分。昨日のやり取りの後で電話がかかってくるか危惧している最中に、携帯が着信音を奏でた。
 私は昨夜と同様それに飛びついて「番号通知不可能」のディスプレイを確認してから通話ボタンを押した。
「もしもし」
『もしもし』
 憤然とした感じのアヤトの声。その声を出したいのは私の方だと、今は言わないでおく。
「調べたよ」
『何を?』
「クラスのこと」
 短く言葉を切って会話する。アヤトは『それで?』とやはり短く促した。
「クラス分けがアルファベット制に移行したのは、1999年度からよ。つまり今から11年前。大方あなたは私をからかおうとして姫治西高の資料を読んだんでしょうけど、残念だったね。あなたが見たのは最低でも12年前の資料だったってこと。今現在、姫治西高のクラスはアルファベットで分けられてるのよ」
 それまでの短い会話とは打って変わって、私はアヤトに割り込む隙を与えずに続けた。それから敢えて黙り込む。アヤトにはもう反論の仕様がないだろうけれど、そこは私の優しさ――いや、意地悪さが発揮されたのだ。
 今度こそアヤトは謝罪の言葉を紡ぐだろう。いや、もしかしたらいきなり電話を切るかもしれない。
 じっと辛抱強くアヤトの出方を待っていると、不意に受話器越しに笑い声が聞こえてきた。その声に思わず眉を吊り上げる。
 笑っている。間違いなく、アヤトは爆笑していた。あの、上品な笑い方で。
「な、何笑ってるのよ」
『いや……ごめんごめん。やっぱりみんなして僕を騙していたのかって思ったら、可笑しくなってきちゃって』
 アヤトは謝罪の言葉を告げたけれど、それは私が予想していたようなニュアンスではなかった。アヤトの笑い声に呆気に取られていた私は、ふと我に返って眉根を寄せた。
「何よ、みんなして騙してるって。騙されたのは私の方だっていうのに」
『もういいよ。お芝居はやめても』
「芝居ってどういう意味よ!」
『だって1999年? それが11年前? そんな可笑しなことってないでしょう』
「それの何が可笑しいわけ!?」
 アヤトは丁寧に言葉を紡いでいるけれど、彼の言葉からは明らかに信じていないという雰囲気が滲み出ている。それにむっとした私は、気が短いという性格を発揮してしまっていた。
『だって今は1987年6月14日の日曜日だよ? それなのに1999年なんてありえない。しかもその1999年が11年前だって言うなら、そっちは今2010年だとでも言いたいの?』
 アヤトはまるで手品の種明かしをするように話している。
 本当に呆気に取られると、人間というものは間抜けな表情を浮かべて固まってしまうらしい。私はその最骨頂である、ぽかんと口を開けて固まるという誰にも見られたくない表情で携帯を耳に押し当てていた。
『可笑しいって最初から思ってたんだ。#1580≠ノ電話をかければ未来に繋がる、なんて本気で信じてたわけじゃなかったけど――』
「ちょ、ちょっと待って。それ本気で言ってるの?」
『え? 本気だよ。未来に繋がるなんて――』
「そっちじゃなくて1987年云々の方よ!」
 思わず大きな声で言うと、綾人はすっと黙り込んでから静かに言った。
『だからお芝居は――』
「芝居じゃない! こっちは2010年よ! 芝居してるとしたらそっちでしょ! 1987年なんてありえない……」
 尻すぼみになりながら言うと、アヤトは再び黙り込んでしまった。私も何も喋れない。
 呆然とする頭を抱えて、私はパソコンの電源をつけた。今日はいやに起動に時間がかかる。
 そんな物音が聞こえたのだろうか。アヤトが小さな声で訊ねてきた。
『何してるの?』
「パソコン起動してるの」
『パソコン……?』
 本当に不思議そうな声でアヤトは呟く。その声に演技がかったところはない。
「パーソナルコンピュータよ――そっか。本当にそっちが1987年なら、まだ個人にまで普及してないのかもしれないな」
 最後の文言は自分自身に向かって言う。アヤトは受話器の向こうで黙ったままだ。
 もし、本当にアヤトが1987年にいるのなら――いや、そんなこと有り得るはずがない。非科学的すぎる。
 やっと起動したパソコンからネットのブラウザを立ち上げて、検索キーワードを打ちこむ。そしてマウスで適当なページをクリックして、姿勢を正した。
「今から私が訊ねることに即答して。少しでも答えるまでにまごついたら、私はすぐにこの電話叩き切るから」
 一方的に私は告げる。それなのにアヤトは真摯にも『分かった』とはっきりと告げた。
「今日……あー、えっとつまり。1987年の6月14日に何があった? アヤトの個人的なことじゃなくて、ニュースになるようなことよ」
『えっと――初来日したマドンナが大阪球場で公演をスタートさせるって、ニュースで言ってた』
 アヤトの答えに、私はスクロールバーを下げてページをくまなく探す。すると少しページを下ったところに、あった。
 ――1987年6月14日 初来日したマドンナが大阪球場から公演をスタートさせる。
 嘘じゃない。パソコンの画面を見て再び固まっていると、アヤトの凛とした声が携帯から聞こえてきた。
『じゃあ今度は僕の質問に答えてくれる?』
「なに……」
 呆然としながら力なく答えると、アヤトは続けた。
『アヤカがいるそこが2010年だって証明して』
「え……どうやって?」
 アヤトの言葉に我に返って訊ねる。アヤトは小さく唸ってから言った。
『たとえば、これから起こることを言ってみて。なるべく明日とか明後日とか、すぐに確認できる日付の出来事でお願いできる?』
「……そんな都合よく何かあると思うわけ? まあ、ちょっと待って。すぐ探してみるから」
 私は言ってからスピーカーフォンに切り替えて携帯を机に置くと、キーボードを素早く叩く。
 1987年の6月15日――何かアヤトに証明できるものは?
 そうして探し始めて一分後、私の手は止まった。
「あった」
 呟くと、アヤトが息を呑んだのが分かった。
「いい?」
『うん』
「1987年6月15日、広島東洋カープの衣笠祥雄に国民栄誉賞が授与されることが発表される――そうよ」
 私が言い終えると、アヤトはまた黙り込んでしまった。私も何も言うことができなくて黙り込んでいると、それから数分してアヤトが小さな声で言った。
『それって、本当?』
「さあ……2010年では本当。とにかく明日、新聞とかニュースとかで確認してみてよ。私にはそれしか言えない」
『そっか……』
 アヤトはそれでも小さな声でしか答えない。私は携帯のスピーカーフォンを切り替えてもう一度耳に押し当てた。
「あの、私もう一つアヤトのこと確認してきてもいい?」
『どうやって?』
「卒業アルバム」
 私が告げると、アヤトが受話器の向こうで首を傾げたような気がした。
「生徒会室に保管されてるのを見たの。アヤトが1987年の姫治西高の2年生なら、1988年度の卒業アルバムにアヤトが載ってるはず。それを確かめても、いい?」
 ゆっくりと訊ねると、アヤトは苦笑したようだった。
『それでアヤカの気が済むならいいよ。――僕も明日、確かめさせてもらうしね』

 

 

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